2009年6月 3日 (水)

『松居直のすすめる50の絵本 大人のための絵本入門/松居直』(教文館)

絵本の読みきかせボランティアを地域や学校でされている方、または先生、そして、我が子や孫に絵本を読んでやりたいと思っている方は、ぜひ、この本をお読みになることをおすすめします。

紹介してある絵本の数々にも納得しますが、何よりも、「絵本を読むとはどういうことなのか」ということが親切丁寧に書かれています。

絵本は子どもだましの絵空事なんかではないのだということが、しっかりと書かれています。

福音館書店の松居直氏といえば、絵本に少しでも興味が出て勉強をした方なら、だれでも知っている超有名人かもしれませんが、そうでなくとも、かつては、1人の父親であったという立場から意見を述べられているので、とても親しみやすく読めます。

読みながら、どの絵本も紹介されるべき素晴らしい絵本ですが、わたしなら、あの絵本を紹介したい!とか、あの絵本が入ってないのは残念!とか、思いもしたので、いつか、わたしなりの、「おすすめ50冊の絵本」を書きたいなぁなどと思ったりしました。

そうなるには、わたしが紹介して、読者が納得するだけのわたしの存在が必要なわけですが。笑

まぁ、それは、また、別のはなし…ということで。。。

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2009年6月 1日 (月)

『本所深川ふしぎ草紙/宮部みゆき』(新人物往来社)

こちらも、江戸を舞台にした、短編集。

「片葉の芦」
「送り提灯」
「置いてけ堀」
「落葉なしの椎」
「馬鹿囃子」
「足洗い屋敷」
「消えずの行灯」

の、7編。

読みながらふと思ったのは、ささやかな、小さな人の心遣いや切なさというものは、日々の忙しさの中では、出会っていても見過ごしたりしているものかもしれないけれど、それを掬いとって読者の目の前に、

「ほら、これ」

と、涙を流させる役割を、作家はしているような気がしました。

どんなけなげさも思いやりも、通じない人には決して通じないこともあるし、気づいていても気づかないふりをすることもあるかもしれません。

それを、でも、ほら、人ってこんなにも愛しいものだよと、提示できる作家、少なくとも、この人はそうだなぁと思いました。

そういう作品を書かなければ。。。

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2009年5月25日 (月)

『あやし/宮部みゆき』(角川書店)

なにげなく立ち読んでいたら、止まらなくなってしまい、購入…。

宮部みゆきさんの本は、どれもおもしろいですね。。。

江戸を舞台にした、ホラー短編集です。

居眠り心中
影牢
布団部屋
梅の雨降る
安達家の鬼
女の首
時雨鬼
灰神楽
蜆塚

の、9編。

どれも、おもしろかったのですが、わたしは、特に、「足立家の鬼」が好きでした。

さまざまないきさつから、商家へ嫁ぐことになった、女中あがりの娘が、病で伏せている姑の世話をしながら、彼女の思い出話を聞くというもの。

天涯孤独に育った娘にしてみれば、他の人ならば、おあいそであいづちを付く程度の話しでも楽しくて仕方がない。
そんな嫁を見て、姑は、
「お前は本当に孤独に育ってきたんだねぇ」
と、つぶやく。

そして、ある日、姑の口から、不思議な「鬼」の話しを聞くことになる。


姑が若い頃、魅入られたように一緒に暮らした「鬼」がいた。
「鬼」は、恐ろしい姿はしておらず、弱々しげなやせ細った若い男の姿をしていた。
「鬼」を穢れとして扱う村人たちこそが、「鬼」だと、姑は僧侶や地主に言い、村を出る。

「鬼」は、ただ、そばにじっといるだけで、姑に縁談がわいても、特に何も言うことはなかった。
やがて、商家へ嫁ぐことになった姑に、鬼はただ一生そっとよりそっているだけだった。

しかし、姑の背後に常にいる「鬼」の姿は、見える者には見える。
だれの目にも同じに映るのではなく、ある者には、おそろしい形相のおぞましい存在として映る。
姑の夫は、鬼の気配だけは分かるようだったが、特に怖がるふしもなかった。

商い相手は、「恐ろしい鬼」を見ては取引を拒み、「恐ろしくない鬼」を見れば、そのまま商いをともにやっていってくれる。
そんなわけで、姑が嫁いだ先の店は、良い相手ばかりと商売し続ける事ができ、たいそう繁盛していった。


人の目に映る「鬼」は、自分がふと垣間見てしまう、自分の本当の姿なのかもしれない。

自分の腹が黒ければ、すべての人間が腹黒くおそろしいことをたくらむような人間に見えてしまうのではないか。

自分が真っ正直に生きていれば、周囲の人間がすべて善良な人間に見えてしまうのではないか。

どちらも危ういことだが、しかし、もし、自分がどちらかの「目」を持っているのだとすれば、後者の方がいいと思う。

人を信じられず、人を裏切り欺いて生きるよりは、人を信じて裏切られることがあっても別にいいのではないかと思ったりする。

本当の意味で、どちらが自分の心を傷つけているかを思えば。

などと、思いをめぐらせてしまうホラーでした。

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2009年2月11日 (水)

『べっぴんぢごく/岩井志麻子』(新潮社)

いや~、もう~、何っていうか、志麻子さんの本は、いつもすごいどろどろしててすごいとしか言いようがありません。

でも、この作品、たとえば、江国香織さんが書かれたら、何となく草食動物的な淡々とした恋愛小説になるような気がするし。
村上春樹さんが書かれたら、シュールかつ何だかおしゃれな恋愛小説になりそうな気もするし。

素材をどう料理するのかが、その作家の個性というのが、改めて感じられる小説なのでした。

ん?

ってゆうか、これは恋愛小説じゃないな。

全然ちがう。

何っていうのだろう~。女の一代記?

桜庭一樹さんの『紅朽葉家の~』を、どろどろした筆致で書くとこういう雰囲気になったりするのかな?

まぁ、とにかく、謎の過去を持つ、1人の絶世の美女が「存在するというだけで」周囲を不幸に巻き込んでいくという、壮絶な物語なのでした。

傾城の美女?

そんな上品な言葉では表現できません。

岩井志麻子さんの作品に出てくる美女たちは、どの人もどの人も不幸のどん底へ落ち込んでいくので、読みながら、ものっすごいネガティブな気持ちに侵食されていきます。
でも、何っていうのか、落ち込むというのではなくて、ネガティブなパワーに満ち溢れるというか…で、読み終わってから、

「いや、いかん!こんな女になってはいかん!」

と、思い直し、日向を見るために冷静になろうとする自分がいるというか、そんなパワーを感じるのでした。

ネガティブさを提示して、逆に人をポジティブにする、すごい作家なのかもしれません。

わたしは、おもしろいと思うので、たまに読みたくなる作家さんです。

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2009年2月 5日 (木)

『ビロウな話で恐縮です日記/三浦しをん』(太田出版)

三浦しをん、ついつい読んでしまいます。

この人のエッセーは、もう、一人称が、「俺」ってなってるし。

いいのですか?

う○ことか、普通に書いてるし。

いいんですか?

同年代の女性として、一抹の不安を覚えつつ、しかし、やはり、おもしろいので読んでしまうのでした。

公共の乗り物に乗っている時に、笑いをこらえきれずに、でも、声をたてて笑ったら変質者と思われてもいけないので、笑いをこらえて笑っていたら、どうやら、顔が、

「にたぁ」

って、感じになってたみたいで、向かいの席の女子高生がじっとわたしの顔を見て、目があったら、あわてて携帯電話を打ち始めました。


「ちょーきいてーまじきもいおんながむかいのせきにおるしー」

とか、打って、友だちに送信したのかもしれません。

ってゆうか、今の女子高生は、ちょーとかきもいとかももう言わないのかもしれません。

どうやって読むのかも分からないアラビア文字のような、あの文章なのかもしれません。

でも、別にいいや。

エッセイおもしろかったから。

しをん氏のエッセーは、何というか、たまに食べたくなる濃厚とんこつラーメンみたいな感じがします。

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2008年10月 7日 (火)

『杉浦日向子の食・道・楽/杉浦日向子』(新潮社)

きりっとして、無駄なものが一切なく、その人の暮らしがそっと覗き見られる感じのエッセイ集。

お酒の好きな杉浦さんが、お酒とそれにまつわるエピソードをひっそりと書き綴った感じ。

押し付けがましくなく、さりとて、遠慮深すぎもせず。

粋です。

かっこいい。

杉浦さんが数年前に急遽された時は本当に残念でした。

けれど、騒ぎ立てもせず、このエッセイのように、そういうもんさとサラッとした最期のような気が勝手にしました。

大げさではないけれど、一本芯の通った女性だなぁと羨望のまなざしを送るのみ。

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2008年9月19日 (金)

『追憶のハルマゲドン/カート・ヴォネガット』(早川書房)

たま~に読みたくなる、早川書房のSF小説。

特に、浅倉久志さんの訳。

なぜか、この人の訳したSFはおもしろい!と、10年以上も前から、SF読むなら浅倉って思っているわたしなのでした。

この作品集は、急死してしまった、才能ある作家カート・ヴォネガットの追悼作品集ともいうべき1冊です。

前半は、ヴォネガットの息子、マーク・ヴォネガットの父への思い出原稿。

そして、後半が、未発表の短編数編。

どれも、戦争時代の兵士経験をもとにして書かれているようで、その重さに耐えられない気持ちになる事もありました。

でも、あくまでもフィクションとして、最後に大どんでん返しを用意してある手腕にうなるばかり。

大どんでん返しというとどんなどんでん返しかと思われるでしょうが、カート・ヴォネガットの大どんでん返しは本当の本当に「大」どんでん返しです!

読んでて、「そっち行くかー!!!」と、膝をたたきたくなります。

あ~、すごいなぁ…と、感心してばかりのわたし…。

センスがすごい。

そして、そのセンスを実際に表現しきっていることがすごい。

プロ。

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2008年9月13日 (土)

『幕末の明星 佐久間象山/堂門冬二』(実業之日本社)

何でこの本を読もうと思ったのか、自分でも分かりません。

何だか急に佐久間象山の事を知りたい!と、思い立ったのでした。

幕末が好きだから?

よく分かりません。

人間ドラマよりも、史実に重きを置いた筆致なので、エキサイティングさはないなぁ~という感想。

そういう事実があったのか、または、あったのだろうなと思いつつ冷静に読む感じ。

でも、佐久間象山の事はよく分かった。

なぜ、急に彼の事を知りたくなったのか、自分でもさっぱり分からない衝動でしたが。

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2008年9月 4日 (木)

『下北サンデーズ/石田衣良』(幻冬舎)

何年か前にドラマでやってたのがおもしろかったので、ちょっと原作を読んでみようかなと思ったのでした。

もう10年以上も前になりますが、劇団というものに入っていたわたしには、とても共感できる部分と、そうでもない部分と。

何よりも共感できるのは、ヒロインたちの、「みんなと一緒に何かを作り上げる喜び」だと感じました。

部活的な時間(と書くと、語弊があるかもしれませんが)って、おとなになると経験することがほとんどないので、こういう青春的な時間ってすごく貴重に感じます。

劇団って、大きくなればどうなのか、大きくなった経験はしたことがないので(笑)分からないのですが、一生、何だか集団でランニングしたり、筋トレしたり、大きな声で歌ったりするような、変なハイな状態が続くような気がします。

もちろんしんどいことの方が多い気がするけれど。

でも、本番の輝きが何もかもを浄化してくれる感じ。

そういう感覚が、この小説には良く描かれていると思いました。


小説に出てくる脇役の小劇場系劇団や、演出家、脚本家、俳優たちが、現在の人気俳優や脚本家たちの名前をもじってあって、分かる人は分かるって感じで笑えます。


石田衣良さんって、プロの小説家なんだなぁって思いました。

この人が描けない作品はないんだろうな。

でも、この人だけにしか描けない世界はどの作品なのか知りたい。

まだ、他の作品をたくさん読んでもいないので言えないけれど。

ファンの方に、「これは絶対におすすめ!」という作品を教えてほしいです。

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2008年8月28日 (木)

『幽談/京極夏彦』(メディアファクトリー)

幽霊解体新書みたいな感じです。

「幽談」というタイトルにも関わらず、幽霊は出てこない…と書いてしまったら、ネタバレですね。
ごめんなさい。

でも、京極ファンなら、その展開は容易に読めるとは思います。

京極さんは、妖怪や幽霊やあやしいものを素材にお話しを数多く書いておられますが、実は、本当に幽霊や妖怪が出てくる話しはないと言っても過言でもないと思うのです。

京極堂シリーズに出てくる、有名なキメセリフ、「不思議なものなど何もないのだよ」に、それは象徴されていると思います。

この本には、

「手首を拾う」
「ともだち」
「下の人」
「成人」
「逃げよう」
「十万年」
「知らないこと」
「こわいもの」

の、8つの短編が収録されています。

わたしは、中でも、「下の人」がこわかった。

ベッドに寝転んでこれを読んでいたので、余計にぞぞぞぞぞ~っと、きました。
性格に言うと、「こわい」というのではなく、「不快感」というのが正しい感覚かもしれません。
主人公の女性の、淡々とした「不快感」への反応がとても素晴らしい。
人は、日常に相容れないものを見つけた時、実は、淡々とこの女性のような対応するのではないでしょうか。


「逃げよう」
も、かなりおもしろい作品でした。

小学生の少年が、ひたすら、「何か」から逃げ続ける話しなのですが、その何か、と、少年の、果てしなく相容れないのに、果てしなく腐れ縁のような感じが、とても不幸な漫才のようで、薄気味悪いのに、なぜか、笑ってしまうような、変な感覚がありました。

京極さんの作品は、こういう妙に一人ボケツッコミのような変なユーモアがあるなぁと思うのでした。

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2008年8月14日 (木)

『記憶の小瓶/高楼方子』(クレヨンハウス)

児童文学作家、高楼方子さんのエッセイ。

およそ2歳児くらいから、小学校中学年くらいの、記憶を掘り起こして、高楼さん自身の思い出を記したエッセイ集です。

ご自身が、

「人の幼少期の話は、自分の幼少期の記憶を呼び覚まします。この極私的な回顧話に意味があるとすれば、その一点に尽きるでしょう。」

と、書いておられるように、誰もが違う幼少期を過ごしているはずなのに、他人の幼少期の話しに、まるでデジャヴのような気持ちがするのはなぜだろう。

わたしも、このエッセイを読みながら、子どもの頃に過ごした、川と鉄道の線路にはさまれた、古い長屋のようなアパートの風景を思い出しました。

今の街へ引っ越して来る前、わたしは小学1年生まで、その古いアパートで過ごしたのでした。

時代だったのか、そのアパートの住民がそうだったのか、わたしの記憶の中で、そこの人々の暮らしは、かなり古ぼけたイメージがあるのです。

川と線路に挟まれて、子どもを育てるには危険と隣合わせの環境だったろうに、わたしは、あまり親に、危ないから線路や用水路へ行くなと言われた記憶がない。

用水路を飛び越えようとして、飛び越えきれず川の中に落っこちて、大きな子たちに助けられたこともあったし、線路の上でケンケンパなんてことをして遊んだこともありましたが、不思議と叱られた記憶がまったくないのでした。

子ども心に、そこの暮らしで強烈に覚えていることは3つ。

一つは、ものすごく酒癖の悪いおじさんが1人いて、夜中に、奥さんの名前を叫びながら近所中を歩き回っていたということ。
その奥さんの名前が、「ヨーコ」ということ。
おじさんは、しょっちゅう、夜中に、
「ヨーコ!ヨーコ!」
と、叫んでいたのでした。

二つ目は、同じ小学校に通う男の子の家が、火事で焼けたこと。
連は違うけれど、同じつくりのアパートに住んでいた男の子でした。
母親がその火事で亡くなられたこと。
わたしは、ランドセルを背負って学校から帰宅していて、家の中から、家財道具を運び出す、その男の子と父親の姿をボーッと見ていた記憶があります。
なぜか、男の子は大きな黒いフライパンを持っていたのでした。

三つ目は、同じアパートの六年生のお兄さんのこと。
このお兄さんは、とても優しくて、一年生のわたしが遊びに行ってもイヤな顔ひとつせずに相手をしてくれる子でした。かけっこをしても、アパートの角を曲がったところで、座って待っていて、必ず、わたしに追い越させてくれ、いつもわざと負けてくれるようなお兄さんだったのでした。
わたしの母親も、「たかしくんは、とても優しい子だから安心してまかせられる」というようなことをよく言っていた。
けれど、なぜか、そのたかしくんは、いつもスヌーピーのぬいぐるみを持ち歩いていたのでした。
今のわたしになら、それが、その少年にとっての、「ライナスの毛布」みたいなものなんだろうなとは思うのだけれど、子どもの頃のわたしは、ちょっと不思議なお兄さんだなぁと思っていたのでした。
とはいえ、いつも遊んでくれるので、大好きなお兄さんだったのでした。


…ね?

やっぱり、こうやって、人の幼少期の思い出を聞くと(読むと)、自分の幼少期のことがぶわっと思い出されてくるのです。

夏バテ気味で、眠れなくて困っていましたが、少しだけ、元気が出る思いです。

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2008年7月13日 (日)

『乙女なげやり/三浦しをん』(太田出版)

三浦しをんさんの、乙女の日常エッセイ集。

…っていうか、乙女?

違う気がするけど。笑


かなりの妄想ぶりに、読者のわたしも、若干、引きます。笑

大好きなハリウッド俳優との新婚生活を、「勝手に」妄想したり…とか。

妄想も、ここまでくれば、もう、アッパレ!とすら思います。

いや…やっぱり、引きます。


面白いんだけど、でも、何だかだんだん痛々しい気持ちになってくるのは、なぜでしょうか?笑

三浦しをんさんの己の内面への激しいツッコミぶりに、何もそこまで己に厳しくしなくても…と、思ったりします。

その激しいツッコミぶりを、世間や社会情勢へ向けてみてはどうでしょうか?と、ちょっと思ったりしました。

でも、そうすると、三浦しをんのエッセイじゃなくなるのかなぁ…。

オリジナリティって、難しいね。

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2008年7月11日 (金)

『5年3組リョウタ組/石田衣良』(角川書店)

初めて石田衣良の本を読みました。

こんなに人気でこんなに流行っていて、映像化もされている人の本は…あまのじゃくなので、かなり時が経たないと読まないあくびです…。

しかも、テレビ等で拝見する石田衣良さんのビジュアルは、インテリおしゃれでちょいハンサムで、トークも上手だし、いかにもモテそうな作家という感じなので、余計に、あまのじゃくなわたしは読みたくありませんでした。笑

すいません。

結局、読めばおもしろいんですよね。

人気あるだけの事はあるなぁって、誰の時もたいがい思います。

通勤列車の中で、涙が出そうな場面もあったほどです。

意外と、直球な作風なことに驚きました。

この作品が、小学校を舞台にした、若い小学校教諭の男性を主人公にしているからかもしれませんが、わりとストレートなメッセージ性の強い作品でした。

裏表のある人間社会で、まっすぐに純粋に素直に、ややもすれば天然ですらある、25歳の教員が、クラスや学校、教員の間で起こるトラブルの数々を、その朴訥な性格だけで切り抜けていくという、現代版、『坊ちゃん』みたいな作品です。

ある意味、ファンタジーなのかもしれません。

でも、別に、いいじゃないかと、読みながら思うわたしがいました。

リアルに、教育問題を提議していく作品ではなく、子どもたちの未来はひたすらだいじょうぶなんだと言い切るその姿勢は、かえって清々しくすらありました。

現実に、学校現場で働いている方々の中には、そんな甘いもんじゃない!と、思う人もいるかもしれないけれど、でも、希望を持たなくてどうするんだと、石田衣良さんは言っている気がしました。

こういう作品があっても、いいんじゃないかと、わたしは思ったのでした。

現実の問題は、すぐには解決できないことがたくさんあるけれど、でも、それなら、読者の心に希望を一滴たらしてあげて、昨日よりは今日、少しだけでも元気に生きる勇気を与えるのも本の役割なんじゃないかと思うのでした。

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2008年7月 9日 (水)

『図書館戦争/有川浩』(メディアワークス)

職場で大人気のこの本、ようやく読みました。

もう、世の中ではアニメにもなっているくらい大人気だったんですね。

全然知りませんでした…。

しかも、5巻まで出ていて、この間は番外編まで出てたし。


人気にたがわず、おもしろかったです。

まず、設定がとてもおもしろい。

現在の日本の図書館制度ほぼそのままで、そして、それプラス軍事訓練が行われているという設定。

訓練の様子は、自衛隊の雰囲気でしょうか。

メディア規制法という法律が施行されているこの物語の中で、言論の自由はかなり規制されています。

そして、図書館という施設は、そのメディア規制法に抵触すると指定された「有害図書」狩りが始まると、警察には頼らず、自力で、図書館とその所蔵資料を守るという設定。

だから、館内で働く司書と、軍事訓練を受けている、図書士という別々の人事があるという設定。

で、この物語の主人公は、女子高生の時に、自分が買いたかった児童書を、暴徒から守ってくれた図書士にあこがれ、自ら志願して図書士に入隊した初の女性図書士という設定。

限りなくエンターテインメントな文章と、テンションの限りなく高い会話でストーリー展開していくので、若干、疲れるんですが(笑)、実は、軍事訓練や、戦争という状況を引けば、実際の図書館の日常に限りなく近いと思います。

だから、この小説、限りなくブラックユーモアにあふれています。

言論の自由とは何か。

書物を焼く国は、いずれ人を焼くという図書士のセリフ。

そして、「良書」を守り、「悪書」を追放するためには、司書の1人や2人を殺害してもかまわないと逸脱していく暴徒たち。

くだけた文章で、けっこう深いことをさらっと言ってのけているエンターテインメント小説です。

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2008年6月29日 (日)

『戸村飯店青春100連発/瀬尾まいこ』(理論社)

人気の高い瀬尾まいこさん作品、初めて読みました。

構成もキャラクター設定も破綻のない、なんて上手なストーリーテラーだろうと感心。

読みやすく、笑いあり涙あり、で。

これは人気あって当たり前ですね。

この物語は、大阪の下町にある、小さな中華料理店「戸村飯店」の長男ヘイスケと、次男コウスケとの青春物語。

ま、さ、に、青春!という感じのくっさいくっさい照れくさい物語です。

でも、何かいいよ、これって思っちゃいます。

イケメンで、小さい頃から女の子にモテモテの長男ヘイスケと、その反対に、親父にそっくりのガッツ石松な感じの次男コウスケの、その、真反対な生き方に、思わず、どっちもがんばれ!って、思っちゃいます。

章が変わるごとに、ヘイスケとコウスケが交代で物語るという構成。

だから、読者はヘイスケの気持ちにもなれるし、コウスケの気持ちにもなれる。

お互いが、戸村飯店を継ぐか継がないかで悶々としていて、ヘイスケは小説家になる!なんて言って東京へ飛び出したり、コウスケは兄なき今、店を継ぐのは自分しかいないと苦悩したり。

コウスケが、2年越しに片想いしているクラスメイトの岡村さんが、兄ヘイスケに恋心を抱いているの知って悶々としたり。

そして、ヘイスケとコウスケが、子どもの頃からずっと一緒に住んでいながら、同じ部屋で寝起きしながらも、いかにお互いを誤解しあっているかが、最終章でスパークリングします。

それが、吉本新喜劇のギャグで表現されて、なおかつ、失笑のはずのシーンが、感動のシーンになるという伏線まで…。

瀬尾まいこさん、頭いいなぁ…。

ここまできれいに丸く納められると、何も言えないよ。

破綻している物語をわざと作りたくなってしまうくらい、美しい小説です。

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2008年6月23日 (月)

『遭難、/本谷有希子』(講談社)

劇団本谷有希子の戯曲。

この若い才能ある女性の作品を舞台で拝見した事はないのですが、自分の名前を劇団名にしたりする妙なセンスは気になっていました。

戯曲を初めて読んだのですが…これは、すごいですね。

演劇界の直木賞といわれる、鶴屋南北戯曲賞を最年少で受賞したのも納得。

人間の闇の部分を、ものすごくユニークに、そして毒を込めて表現した作品です。

巻末に上演当時の配役が書いてありましたが、この作品の主人公ともいえる女教師の役を、松永玲子さんが演じていたようです。
この女優さん、テレビではほんの脇役でしか見かけませんが、舞台での彼女は、人間爆弾としかいいようのない、おそろしくリアルな演技をされるので、一度見たら忘れられないです。
容姿は、そんなにびっくりするほど目立つ方ではないのに、演技をすると、どんな美女にも、どんな醜女にも化けられるすごい人だと思います。

この自己愛の異常に強い、そのせいで他人をもどんどん傷つけていくナルシストな女性を、見事に演じられたに違いないですね。

読みながら、あー、いるかも、こんな人…と、思いながら、笑いながら、でも、読み終わった時、静かに自分の心に寒々しい気持ちが湧き上がりました。
こんなにも人間の内面をえぐりとる事のできる人も、なかなかいない…と思ったのでした。

こわい作品です。

女性が文筆業についた歴史は古いですが、こうやって、すごい才能のあるおそろしい女性が世の中にはいるんだと思うと、圧倒されます。

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2008年6月17日 (火)

『モーニング/小路幸也』(実業之日本社)

男4人の青春ロードムービーにできそう。

学生時代に同じ大学に通い、バンドを組み、そして、いつしか共同生活を営み始めた5人の男たちが20年後に再び出会う事になる。

5人のうちの1人、真吾の早すぎる死をきっかけに。

卒業後、それぞれに仕事があり、家庭ができはじめた5人は会おう会おうと言いながらも集まる事がなかった。
皮肉な事に、真吾の葬式というきっかけがなければ。

葬式の帰り道、仲間のうちの1人、淳平が自殺すると言いはじめ、それぞれ飛行機や新幹線の予約をしていた者たちは、急遽キャンセルして、淳平を思いとどまらせようと、淳平の車に乗り込む。

「目的地に着くまでに、俺たちがお前の自殺したい原因を当てたら、自殺を思いとどまれ」

という約束をし、中年男たちのロードムービーが始まる。


うまい設定だなぁと、思う。

もう、それだけで、映像が頭に思い浮ぶもん。

キャスティングとか考えちゃうもん。

映画1本できるよ?この本で。

しかも、車という密室の中で、それぞれの人間がそれぞれの思惑をかかえてそれぞれに発言する、パーキングエリアに止まれば、そこで、外の空気も入る。

一幕もののできあがり。

「死」というものを取り扱っているけれど、中年男たちが思い出す青春時代の思い出話が、しめっぽさをなくしてくれているし。

淳平が自殺をしたいと言い出す原因は、学生時代、淳平が付き合っていた年上の女性、茜さんが原因ではと皆は言い出す。
いつしか、大学生の若者たちの中に、マドンナのような存在となって入ってきた一人の可愛らしい社会人の女性。
みんながあこがれていたけれど、いつしか、茜さんは淳平だけを見つめるようになっていく。

もちろん、仲間たちは悔しいながらもそれを祝福したし、当然、2人は結婚するんだろうとまで思うほど仲が良かった。

当時、コンパのたびに別れたのくっついたの…と、騒いでいた若者たちのような雰囲気は2人の間にはなく、本当に心の底から2人はつながっているのだと、若者たちにも理解できたので。

でも、結局、茜さんは交通事故で死んでしまう。

それが自殺だったのか、本当に事故死だったのかは、今でも分からない。

その原因となった事実が、彼らの心の傷だった。

淳平が自殺するというなら、茜さんの事くらいしか思い当たらない。

でも、なぜ、こんなに何年も経ってから?

仲間の1人、真吾の死がそれを思い出させたのか?

車内で語られる思い出話をすればするほど、読者には驚愕の事実が知らされていく。

オチがついたかと思ったら、最後の最後にまた驚愕の事実。

決してパンチは効いてない。

でも、ボディブローをくらったように、後からじわりじわりと痛みがくる。

それでも、ロードムービーは、見終わった後も、主人公たちの人生は続いていくんだという事は暗黙の了解だし、スクリーンのこっち側にいるわたしたちの人生も続いていくんだというのも事実。

本を閉じた後、表紙に書かれた「モーニング」というタイトルに、思わず、吹き出してしまう。

なんだよ、それっ!て、思う。

どこまで本気なんだろう、この作家はと、思ってしまう。

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2008年6月13日 (金)

『阪急電車/有川 浩』(幻冬舎)

この人の作品はおもしろいおもしろいと職場の人が何人も言うし、お客様の評判もかなりいいので、ついに読む。

今、人気の若手作家の一人。

最近、30代、40代の女性作家が元気がいいなぁと思うのはわたしだけでしょうか。

この作品は、関西に住んだ事があり、今でも勉強会のたびに関西方面へ出かけ、阪急電車を利用しているわたしには、「あー!そうそう!知ってる知ってる!」という感じもあり、相乗的におもしろい作品でした。

もちろん、阪急電車を利用していなければおもしろくないというわけでは全くありません。
作者もどうやら阪急電車沿線に住んでいるようですが、作品は、人間ドラマなので、電車は舞台装置として活用されているのです。

こんな短編映画とかあったらオシャレなんじゃないかなとか、オムニバスドラマとか作ったらおもしろいんじゃないかななんて、すぐ、わたしは思ってしまう。

今読んでいる他の本も、シチュエーションコメディとか、ロードムービーにしたらすごくおもしろいぞ!と、思いながら読んでいるところだし。
配役は、香川照之とか、芸達者な味のある中年の男優たち4人で固めるといいぞ!とか。
すぐに思ってしまうわたしなのでした。
次回の本の感想は、きっと、その本の事を書くと思われます。


閑話休題。


この物語は、各章が駅名でくくられていて、「宝塚駅」から、「西宮北口駅」までの片道15分間に起きた小さな出来事を紡いでいっている。
そして、「西宮北口駅」で折り返し、「宝塚駅」で締めくくる。

登場人物は、それぞれ違うけれど、彼ら彼女らの視界には、次の物語の主人公たちがいるのである。

誰もが主人公であり、また、誰もが脇役でもあるという、なかなかにオシャレな作品。

わたしの一番気に入った登場人物は、翔子さんという女性。

彼女は、白いドレスで阪急電車に乗り込んでいる。

手には、披露宴の引き出物。

それだけ見れば、どんな非常識な女かと周囲に白い目で見られそうなのだけれど、彼女は確信犯。

彼氏と婚約までし、披露宴会場まで決まっていたのに、彼がマリッジブルーの間に、同じ社内の、翔子にとっては友人だと思っていた女子社員と浮気をし、その女子社員が妊娠し、そのままかっさらわれるという事態になり、翔子は、その因縁の披露宴で見事、討ち入りを果たしてきた帰り道なのである。

もちろん、その女子社員は、翔子の彼氏を獲ろうと常日頃から狙っていたわけであり、翔子を友人とは微塵も思っていなかったわけである。

現実にもよくある話しといえば、そう。

いや、討ち入りが…ではなくてね。笑

この物語は、そんな翔子や、他にも何だか日常の切ない思いやつらい思いを抱えた人々が出てくるのだけれど、それを、少しだけ楽な気持ちにさせてくれる魔法をかけてくれる。

阪急電車という乗り物が、少しだけ、現代のおとぎの国への乗り物に思えるファンタジーだと感じた。

魔法なんかもちろんかかっていない。けれど、有川浩という作家の書く、登場人物たちのセリフはことごとく優しく、そして、ことごとく甘美だ。

現実には、そんなセリフはほとんど言えないだろうし、言わないだろうけれど、それをあえて書いて、読者を少しだけ身軽にしてくれる。

翔子が身軽になると、彼女は、また次に出会う乗客に、その魔法の言葉をかけてあげるのだ。

翔子が駅のホームで出会う、小学生の女の子にかける言葉に、わたしは不覚にも泣きそうになってしまった。

自分が損すると分かっていても、不本意にもその他大勢に迎合するくらいなら、1人でいようという少女の姿勢。

そして、そうやって前を向いて立ちつづける事がいかに孤独でしんどいかという事。

現実には、そのしんどさに気づく人はなかなかいないし、いるとすれば、同じようにしてしか生きられない不器用な人だけ。
でも、相手だって不器用だから、こっちのしんどさに気づいていても、この小説のような素敵なセリフはなかなか言えないのだ。笑

小学生の女の子の姿は、どっちかっていうと、わたしと同じだなぁ…と、苦笑いしながら読んでいた。

もっと周囲の女子たちに迎合して生きられる性分なら、こんな風にはなっていなかっただろうなぁ…というのが、客観的にものすごく分かるだけに、心臓が痛いなぁ…って感じだった。

あぁ、損するんだよね、そういうのって。
で、すごいしんどいんだよね、そういう性格ってって思う。
でも、自分はそうやってしか生きられないんだから、後悔はしないでおこうと思う気持ち。
そんな読者の気持ちを、ちょっとだけ楽にしてくれる物語。

そういう意味で、これは、リアリズムじゃなくて、ファンタジー小説だな、と、思った。

ちょっとだけ、甘い感じがね、ちょっとだけ苦手でもあるんだけれどもね。

甘い小説は、しんどくなるから、ちょっとだけ苦手。

でも、まぁ、これっくらいの甘さなら、たまにはいいかなと、思ったりもした。

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2008年6月10日 (火)

『花天新選組 君よ いつの日か会おう/越水利江子』(大日本図書)

秋飛という現代に生きる少女が、幕末の日本に生きる事で、新選組の若者たちの生き様を、まさに、「体験」するという物語になっています。

ただし、これは、タイムスリップものではないのです。
確かに時空を越え、秋飛は彼らと出会い、共に生き、戦いますが、それは魂の交流だと思ったのでした。
道場の孫として生まれた秋飛の剣士としての魂と、沖田総司という魂が出会う物語なのだと思いました。

前作、『月下花伝 時の橋を駆けて』では、新選組よりも、秋飛という少女の物語に重きが置かれていましたが、今回は、かなり史実を織り交ぜた時代小説になっています。
新選組ファンには、たまらない1冊だと思います。
ものすごく読みごたえのある新選組小説です。

若くして、志半ばにして散っていった者の多かった新選組という組織の中でも、有名な近藤や土方、そして、沖田総司。
彼らの生き様が、まるで息吹を感じられるかのような筆致で描かれていて、時代物好き、新選組好きは興奮します!

それというのも、読者が秋飛という少女の視点になって読めるように実にうまく描かれているからです。
秋飛が、この時代に生きるきっかけになった瞬間の描写がすごく迫力があります。
目を開けた瞬間の彼女に目に映ったもの、人は、読者の目にそのまま映るように描かれているのです。

そう、まるで、映画のカメラの演出のように、観客であったはずのわたしの目は、秋飛の目になって、時を越えた瞬間に立ち会う事になりました。

秋飛の目の前に初めて現れた人物、後でそれは新選組の井上源三郎だと分かるのですが、彼の動きがまるでスクリーンの中で動く人のように秋飛の目というカメラを通して読者に伝わってきます。

うまい!と言うのも失礼な話しですが、本当にううむすごい!と、うならずにはおれませんでした。

この瞬間から、わたしは秋飛の目になって物語を、まさに、「体験」する事になりました。

この作品のすごいところは、現代の少女である秋飛が、新選組の中にあって、決して、「お客さま」ではないというところ。
六番隊の平隊士として、この時代を、「生き」なければならないというところ。
少女として現代を生きていた秋飛が、男として、幕末の時代を生きなければならないという事。
新選組という組織に属していれば、必然的に殺戮の場面にも出会うということ。
けれど、秋飛は、誰にも甘える事なく、その事実に対してきちんと立ち向かっていく。
それが、本当にこの物語を素晴らしいものにしていると思ったのでした。

歴史を知っている彼女は、これから先、新選組がどうなるかも知っている。
けれど、歴史等というものは、人間1人の力ではどうなるものでもない。
それは、どんなに天才的な人物がいたとしても、そういうものだったと思う。

だから、大好きな沖田総司や近藤勇たちの命を救う事などできるわけもない。
けれど、彼女は精一杯に時代の中で生きる事に努力した。
それが、読み手にひしひしと伝わってきて、その彼女の生きる姿勢が、きっと、新選組にいた多くの若い隊士たちの姿だったんだろうなと、切なく胸に迫ってくるのです。

児童文学という枠を超えて、この作品は、世の中に数多くある優れた「新選組」作品の中に仲間入りしたと感じました。
何よりも、近藤や土方、沖田、井上、永倉、斎藤、島田、原田、藤堂…といった、新選組ファンにはおなじみの人々が、作品の中で、生き生きと動きしゃべっているのです。
残念ながら、描かれているのは、山南さんが亡くなった後の新選組なのですが、それでも、本人たちはきっとこんな風にしゃべり動いていたのでは…と、思えてきます。
だからこそ、新選組好きの多くの人にも、この作品を読んでほしいと感じます。

客観的にこの時代を見るというよりも、この時代を生きた人の心になれるすごい作品です。

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2008年6月 5日 (木)

『ゲゲゲの女房/武良布枝』(実業之日本社)

漫画家水木しげるの妻である、布枝さんの自伝。

読み始めてすぐに、上品な文章に惹かれた。

特に派手な事も書こうという衒いもないし、ただ、ありのままを淡々と書いておられるだけなのに、なぜか真剣に読ませる迫力がある。

きっと、布枝さんという1人の女性が、これまで、とても真面目にとても丁寧に生きてこられたからだろうと思う。

ご夫婦や家族の写真が数点載っているけれど、水木しげる氏の描く布枝さんの似顔絵とは大違いで、ご本人はとてもかわいらしい女性なので、びっくりした。

いや、びっくりするという言い方は失礼だけれども。笑

水木漫画に登場すると、みんながみんなあんな顔になるので。笑

この分だと、サラリーマン田中のモデルとなった編集者さんだって、あんな顔じゃなくて、もっとハンサムかもしれないぞと、思った。笑

絵だと、妖怪なのか人間なのか区別がつかないのに。笑

有名人の妻という気負いは、この本からは微塵も感じられない。

親戚のおばさんが、生い立ちをぽつりぽつりと話してくれるような親近感がある。

どこにでもいる普通のおばさんだと思っていた、親戚のおばちゃんにも、実は色々な苦労や悲しみ苦しみ、そして幸せな人生があったのだと、その人の生きてきた道を知った時の、静かな感動に似ている。

もっと、おばちゃんとしゃべりたい。
もっと、おばちゃんの事が知りたいと思う時のような気持ち。

水木しげるという人に興味がなくても、これは1人の女性の昭和史として読めると思えた。

ラストの数ページは、涙が止まらなかった。

伝記とか、自伝とか、そういう類のものを読んで涙が出たのは初めてだ。

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2008年5月17日 (土)

『こころげそう 男女九人お江戸の恋のものがたり/畠中 恵』(光文社)

「しゃばけ」シリーズの畠中さん最新刊。

今度は、恋愛小説。
でも、畠中さんの作品は、しゃばけシリーズの時も思ったけれど、ベースに、「切なさ」が漂っているから、恋愛物、きっと似合うと思っていました。
今回、編集さんが恋愛物を書きましょう!と、言われたのか、ご本人が書こう!と、思われたのか、それは分かりませんが、この作品も、切ない系で良かったなぁ~と、思ったのでした。

お江戸の男女九人の幼なじみたちをベースに、主人公である下っぴきの宇多と、その想い人於ふじとの恋と事件がからみます。

そして、やっぱり、畠中さんといえば、あやかしの存在?というわけで、ただの恋愛物ではありません。

今回も、出てきますよ。

出てくるだけではなく、かなりその存在は重要。

キーマンならぬ、キーアヤカシ?


子どもの頃から、幼なじみとして育ってきた九人が、大人になり、それぞれの道を選択していく様子、切ないですね。
そこには、身分の差や職業観等も絡んできます。
様々な価値観が存在する現代では、けっこうどうでもいい理由だったりするかもしれないけれど、時代物のおもしろさはそこにあるなぁと思ったりします。
身分とか職業とか、いろんな制約があるし、文明の利器もほとんどありません。
恋人同士も携帯電話で連絡を取り合ったりできないし、いつ会えるのかも分からない関係だってあります。
だから、人間関係が、とても濃密に描けるような気がします。

家業を継がなければならない。
婿養子を迎えなければならない。
いつまでも仲良く楽しく暮らしていたいけれど、そのぬるま湯から出なければならなくなる時は必ず来る。
大人の読者は、その時の切なさや甘酸っぱさを思い出し、若い読者は、今の自分たちの気持ちにシンクロさせて読むんじゃないでしょうか。

時代は変わっても、人の心はそんなに大きくは変わらない。
それをダイレクトに表現できるのが時代物なんじゃないかと、思ったりします。

今回もおもしろかった~。

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2008年5月15日 (木)

『お父ちゃんと私 父・水木しげるとのゲゲゲな日常/水木悦子』(やのまん)

水木しげる大先生の次女、悦子さんのエッセイ集。

読めば、水木家の人たちがどれだけ、この水木しげるという人を愛しているのかがよーーーーーっく分かる1冊です。

家族ぐるみ親戚ぐるみで水木しげるファンなのですね。

悦子さんのなんてことないですよという文章のせいで、そんなに変人とは思わないのですが、よくよく読めば、やっぱり変人です、この水木さんという人は。
愛すべき愛嬌たっぷりの妖怪馬鹿なんですね。
素晴らしいです。

でも、芸術家なんだなぁと思うようなエピソードも何個かあって、やっぱり、かっこいいぞ!と、思ったりしちゃいました。

中でも一番好きなエピソードは、悦子さんが中学生の時に美術の教科書でムンクの絵を見て感動し、帰宅して水木さんに述べると、後日、ムンク展に連れて行ってくれて、どの絵にも詳しく解説をしてくれたというもの。
あまりにも詳しく説明するので、周囲のお客さんたちが、学芸員かと勘違いし、水木親子の後ろをぞろぞろついて来てしまい、悦子さんが、お父さんを取られたみたいで寂しく思っていたら、水木さんはぐわっと振り向いてお客さんたちに、
「私は、娘に聞かせるために説明しているのであって、見ず知らずの人たちにまで聞かせるつもりはない!帰れ!」
と、言ったというもの。
何かいいなぁと思ったのでした。
お客さんたちは、そりゃあびっくりしたでしょうけれども、水木さんの娘を大切に思う気持ちがすごく表れていて素敵だと思ったのでした。

そんなエピソードてんこもりで、愛にあふれるエッセイ集ですよ。
ごちそーさまでした。

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『雨月物語/青山真治』(角川書店)

角川映画の「雨月物語」のノベライズ。

上田秋成の「雨月物語」をベースにした、時代劇伝奇恋愛活劇という感じの娯楽小説でした。

上田版だと、女の執念のようなものを感じるのですが、こちらはどちらかというと、男の執念。

物の怪と知りながらも、一生をその女に捧げる1人の男の物語です。

娯楽小説なので、すいすい読めておもしろいのですが、ラストはそーなるかぁ…と、思うばかり。

幸せって何だろな…ですよ。

映画を観たら、また違う気持ちになるのかもしれませんけれども。

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2008年5月 6日 (火)

『空の絵本/あまんきみこ』(童心社)

童話作家あまんきみこさんのエッセイ集。

「空の絵本」という清々しいタイトルの通りに、一つ一つのエピソードが胸にすーっと染みわたる。

小さな野の花たち。

小さな雨つぶ。

地面をはうアリたち。

黄色く色づいた秋の葉っぱ。

忙しい毎日、目に入っていても、立ち止まることなく、素通りしている自然の小さな営みに、ふと足を止める。

そういう生き方をしていたいと、わたしも、思う。

そんな小さな小さなものたちの中に、物語の種は眠っている気がする。

車や自転車でさーっと通りすぎてしまっていると、気づかないかもしれない。

鉛筆で、少しずつ少しずつ書きつけていかれたような、丁寧な文章が胸に染みる。

あぁ、こうやって書くんだ。

奇をてらうことなく、素朴でいいから、丁寧に、真摯に書いていけばいいんだ…と、背筋が伸びる。

丁寧に生きている人のところには、丁寧な人たちが集まる気がする。

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2008年5月 1日 (木)

『赤瀬川原平の今月のタイトルマッチ/赤瀬川原平』(ギャップ出版)

タイトルだけの書評。

っていうか、それは書評?

赤瀬川原平さんが、ひたすら、書籍の「題名」だけ、を、見て、コメントを述べるという無理難題な書評集です。

いや、書評じゃないか…。

よく分からん。


でも、実際に、タイトルだけを見てコメントを書いていても、結局は、本の内容に当たらずとも遠からずなわけで、結局は書評なのかもしれません。

この中で紹介されている本で、わたしが実際に読んだことのある本はたったの3冊だけでした。

それにしても、世の中にはいろんなタイトルがあるものですね。

当たり前だけれど。

うーむとうなるような素敵なタイトルから、えええ…と、ひいちゃうようなトホホなタイトルから、それ、どーなんだ?と疑いたくなるような恥ずかしいタイトルやら。

でも、結局は、それは本の看板なので、いろいろ考えられてつけられているわけでしょうね。

タイトルをつけるのが苦手なわたしです…と、いつも言っていますが、最近はそうでもなくなってきました。

いや、別にうまくなってはいないのですが、苦手だと思わなくなってきました。

それなりに下手なりに何とか思いつけるようになってきました…という感じです。

それは、多分、物語を書いていて、自分が結局何を言いたいのか分かって書けるようになってきたからなのかなぁ…などと思うようになりました。

いや、表現できているかどうかは読まれた方に判断におまかせするしかないのですが、少なくとも自分の中で、混乱が減ってきた気がします。

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2008年4月22日 (火)

『対談集 妖怪大談義/京極夏彦』(角川書店)

京極夏彦氏と妖怪好きのおとなたちが、妖怪について、好きなようにおしゃべりしています。

水木しげるはいうにおよばず、
養老猛司
中沢新一
夢枕 獏
アダム・ガバット
宮部みゆき
山田野理夫
大塚英志
手塚 眞
高田 衛
保阪正康
唐沢なをき
小松和彦
西山 克

以上の妖怪好きないいおとなたちが。

でも、この本ねぇ…民俗学、歴史、文学、言語、漫画、絵画…あらゆる視点で語られていて、かなり興味深いです。

「妖怪」というのは、奥が深い…というか、何者でもないから、あまりにも多くのジャンルを包括してしまっていくのかもしれないです。
虚無が広がるというか。
それは、ネガティブな意味での虚無ではなく。
もう、世界は「妖怪」という気配に包まれているんだと思います。

何者でもないからこそ、何者にもなれるというか。

やっぱり、妖怪なんですよ。

何言ってるか分からないですね、わたし。笑

少しでも妖怪という気配に興味のある方は読んでみて下さい。
鬼太郎に代表される、キャラクターとしての妖怪もありますが、何というか、妖怪って、こわいとかお化けとかそういう類のものではないのですよね。
もう、人間が生きている限り、「妖怪」は存在します。
哲学的な生き物です。
でも、難しく考えすぎても妖怪に魅力を半減させるし。
困った存在です、奴らは。


嬉しそうにしゃべり続けるおとなたちの話しを読んでいるだけでも、楽しい1冊です。
果てしなく、おとなげなくおとなげのある方たちの対談集。

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2008年4月11日 (金)

『紅雲町ものがたり/吉永南央』(文藝春秋)

母ほどの年齢の人にすすめられて読んだ。

じーんとくる本だった。

主人公は70代の喫茶店と雑貨屋を経営する女性。

友だちは一人。
その友だちも、今は痴呆気味で、息子夫婦が一緒に住もうと言っている。

従業員は娘ほどの年齢の女性が一人。

たまに来る、運送屋の男。

あとは、常連客と、珍客と。


一人で生きている草(そう)という女性の凛とした姿と、かといって、凛とばかりはしていられない弱さとが見え隠れし、じーんとくる。

この本をすすめてくれた女性は、

「あなたはまだ若いからね、まだ、この本の本当のじーんは分からないかもしれないわよ。わたしなんかはね、もう、いろんなところが切ないの。でも、この気持ちをこの作家はすごく上手に代弁してくれてる」

と、言っていた。


代弁。

なるほど。

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2008年4月 9日 (水)

『ほやじ日記/倉田真由美』(朝日新聞社)

各界の有名なおじさまたちを、くらたまがズバズバとけなしほめていくイラスト付エッセイ集。

3年前の出版なので、まだ堀江貴文も逮捕されていないし、保坂尚輝も出家してない。
そんな微妙に話題性からはずれた本を図書館で手にしてみた。

くらたまさんは、『だめんずうぉ~か~』で、時の人となり、女性ファッション誌などでも、たまに、「だめんずの見分け方」なんて、対談に出ていたりする。
だめんずの見分け方を人に教えてもらってもなぁ…とか、思ったり。
まぁ、いいや。

*******

そういえば、この間、話題の映画、「クロサギ」を見た。
久しぶりに、わたしの脳内ラズベリー賞受賞作品でした。

美形のジャ○ーズのタレントくんが主演という事で、ジャ○ーズ大好な同僚女子と観に行ったんだけれど。

あああああああああ!!!

何なんだこの映画は!!!!!!?!!?!??!

と、激しくむしゃくしゃした。

脇役の山崎努さんは、渋くてキュートで演技はピカイチにうまくてかっこよかった。
ちなみに、『ほやじ日記』でも、くらたまさんがベタ褒めしてた。笑

別に主演の若者も悪くない。
演技は特にうまいとも思わないけれど、美形だから、大画面に耐えられるし。
一生懸命さはすごく伝わってきたし。

でも、まぁ、要するに、この子のプロモーション映画だったってだけで。
おそらく、10代の女子がたくさん観に来るであろう事を予想してなのか、不必要に親切すぎる解説が入って、
「観客をばかにしてんのか!?」
という気持ちにさせられる。
そんな解説しなくても、お客は理解してると思うぞ、と、思ったり。

そして、何か多分、原作とかどーでもよくなってる設定と演出。
原作者は悲しんでいないですか?だいじょうぶですか?

でも、何よりも、いきなり、まったく、必要のない場面で、この若者の歌う曲を挿入したセンスに脱帽です。

「このCD発売しまーす!買ってね!」

という、某大手タレント事務所の意図見え見えで、びっくりした。
そんなに挿入歌として使用したかったら、もっと、効果的な場面で使えばいいのに、なぜ、ここ!?
サブリミナル効果ですらなくなっていないですか!?
と、素人のわたしもびっくりした。

あと、何か、シェイクスピアの設定を持ち込んでたけれど、全く生かしきれていなかった。
余計に話しが混乱してた。

ダメ出し三昧ですいません。

あー、びっくりしたー。

いくら話題のタレントくんのプロモーション映画とはいえ、もっと丁寧に作りこんでも罰はあたらないと思ったのでした。

何か本の感想から話しが大幅にそれました。
フラストレーションたまってたのね、きっと。

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2008年4月 4日 (金)

『東京日記2 ほかに踊りを知らない。/川上弘美』(平凡社)

東京日記の1を読んだ時に、わたしはこの人の文章にいたく感心した。

それから、ものごとをとらえるセンスにいたく感動した。

日常の同じものを見ても、同じ事を思っても、それを他人に伝達する表現力がものすごく発達している人なんだと思った。

作家なんだからそんなの当たり前だと思われるかもしれないけれど、でも、何か違う。

川上弘美さんは、何か違う。

こういう「何か違う」と思う皮膚感覚の作家に、たまに出会うと、すごいドキドキする。

うれしいドキドキと同時に、はっきり言えば、この感情は多分、嫉妬。

こんな風に目の前の風景を切り取って、人の目の前に提示できる人になりたいと思う。

ものすごく世界を切り取るセンスのある写真家の写真を見せ付けられる感じ。

「これっくらい、わたしにも撮れるわよ」

と、思わせてくれない感じ。

そういう風にわたしの目にも見えているんだよ、でもね、わたしはそういう風には写真撮影できないんだよ…という気持ちになる。

ああ悔しい。

でも、むさぼり読んでしまう。

わたしは、この言葉を飲み干さないと、喉がかわいてかわいて仕方ないのだと感じてしまっているからなぁ…。

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2008年3月30日 (日)

『人生激場/三浦しをん』(新潮社)

しをん氏の本ばっかり読んでいる…。

主な読書時間は、通勤列車の中なんだけれど、笑いをこらえるために、かたっぽの頬だけニヤリという感じにゆがめて笑いを我慢してしまう。
非常に感じ悪い気がする。
でも、そうでもしないと、公衆の面前で、
「ぶわっはっは!」
と、笑い出しそうになるので危険なのです。
じゃぁ、読むのを我慢して人のいない場所で読めばいいじゃないかと言われるかもしれないけれど、それは、無理。
いつ何時でも二ノ宮金次郎のように薪を背負ってでも読みたいのがおもしろい本なのですから。

この人のエッセイの何がおもしろいのか気づいた。

ものっすごいどうでもいいような些細な日常の事、すれ違った人々に対して、ものっすごい妄想が膨らんで、ものっすごいへんてこりんなストーリーをでっちあげてしまうからだなぁ。
文章は、女椎名誠みたいな感じだけれど。

しをん氏が、この本の中で、ふとつぶやいていた言葉、

「人の幸福の傍観者である事がわたしの幸福なのではあるまいか」

という事。

笑い出しそうになった瞬間に、何かひやりとしたのでした。

あぁ、こんなに妄想だだもれで暴言吐きまくりなしをんさんですが、何と宮沢賢治な事か………。

涙出る…。

でも、まだまだ修行中であるぺーぺーなわたしですが、冗談抜きで、物書きとはそういうものではないだろうか…と、最近、何だかそんな風に思うようになってきた。
それを幸福と言い切れるのかどうなのかは、非常に難しい問題だとは思うのだけれど…。

*******

今日、久々に、このブログのアクセス解析なるものを見てみた。
なぜか、火曜日に読みに来てくださる人が多い。
日本全国の人に読んでいただいているようでびっくりした。
沖縄からアクセスされている方もおられるようだ。

そして、最も多かった検索キーワードは、「篤姫」…。

えええ!?
一応、児童文学作品の感想や、お芝居の感想で埋め尽くしているブログのはずなのに、よりよって、なぜに、篤姫。
確かに、宮尾登美子氏の本の感想は書いたが…。
その1日のために、こんなにアクセスが!?

おそるべし、大河ドラマ…。

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2008年3月26日 (水)

『桃色トワイライト/三浦しをん』(太田出版)

また読んじゃった。
しをん。

先日読んだ本といい、この本といい、表紙絵が有名な少女漫画家さんというのが、三浦しをんの本らしくてたまらない。
いっその事、荒木先生に描いていただいたらどうだろうか?とか、思うけれど、乙女路線じゃなくなるのかな?

もう、充分に、乙女じゃないすごいエッセイ集になっている気がするんだけれど。

こちらも、妄想だだもれな変なエッセイ集。

いろいろツッコミどころ満載でしたが、共感できた事が。
しをん氏が毎回エッセイに登場させないと気がすまないほど、どうやら、大好きな俳優さん、オダ○リジョーさんへの妄想エトセトラ。
伏字にする必要を全く感じませんが、しをん氏が本文の中で伏字をしているので、伏せときます。

あまりにもしをん氏がオダギリ○ョー大好き大好きを連発していたら、さる業界の方から、試写会ご招待&ご本人にご対面というラッキーな事態を与えていただけるという打診があったそうです。

で、しをん氏は、1時間悩んで断ったそうです。

友人知人に大バカ者呼ばわりされたけれど、断るしかないだろうと乙女しをん氏を結論づけたそうだ。

あー!わたし、その気持ち、すーーーーーーーっごい理解できる!と、思いました。

断るしかないくらいに、自分がものっすごいへたれになってしまうのがよっく分かるくらいに、大好きすぎて逆に会いたくなくなるんだよね、乙女は。笑

図々しく、はい!会います!と、言えないジャンルに属する乙女なんだよね、分かる分かる!!!

例えばさ、わたしにもそんな大ラッキーな大チャンスが訪れたとしよう。

うーんと、例えなくても、それは上川隆也さんに会わせてあげますよって言われたとしようよ、もー、何かそれ、無理!!!って、わたしの中のキャパシティが警報を鳴らし始めると思うんだ。

本人に会う前に、逃亡しちゃうかもしれないんだ、あまつさえ、会えたとしても、ものっすごい無言でうつむいているしかなく、
握手してくださいとかサインして下さいとかそういう決まり文句すら言えずに、もじもじしちゃう可能性大なので、
「は?何がしたいねん、この人」
と、思われるの必至なので、じゃぁ、いいです、会わないで星明子のように木の陰(ってゆーか、劇場の客席)からいつも彼を応援しておくだけで満足ですアタシって、気持ちになると思います。

あと、えーっと、それが例えば、古田新太さんの場合でも、わたしは同様の事態になること必至なので、やっぱり星明子のように木の陰(ってゆーか、劇場の客席)から、見つめているだけでいいですアタシって…以下同文。


古田さんで思い出した。
今日は、急にシフトを変更してほしいと言われ、珍しく水曜日休みになりました。
なぜかそういう日に限って、「笑っていいとも!」を見てたりすると、古田新太が出てたりするんだよなぁ~なんちゃって~って、思いながらテレビつけたら、本当に古田さんがいいともに出てた!

何コレ、何テレパシー?
アラタテレパシー?
何電波を受信中なの?わたし…。
運命なのかしら、これは。(←バカ)

こんなわけで、ダメな感じの妄想乙女で過ごしてきている30数年です。笑

これは、別に好きな俳優さんだけに限らず、現実問題として、わたしはこういう事をやらかしぎみだからね…。

男前に頻繁にメールもらったり、お食事に誘われたりすると、何で?
何でわたしなの?
絶対にモテモテくんのはずなんだから、もっとその他に美しく素敵な若い女子はたくさん周囲にいるんじゃないの?わざわざわたしなんかと飯食わなくたってさ、何なの?何?
って、思っちゃいます。

女友人たちに、激しく非難され、大バカもの呼ばわりるんだけれど、わたしの中では、何が何やらさっぱり理解できないわけよ、そういうのが。

そうか!もしかして、営業だ、そうだ、これは営業なんだ!
でも、わたしは、その商品は使っていませんし、今後数年先に買うという予定も今のところありませんので、あなたの会社の売り上げには何も貢献できないと思いますよ、だから時間の無駄ですよ。

という妄想を繰り返し、数ヶ月後には、これは何かの罰ゲームなんじゃないかと思ったりしはじめる始末なのでした。
「あ!そうか!これ、多分、男同士でさ、飲み会の席で何か賭けてて、この人は負けちゃってさ、罰ゲームとしてわたしとご飯食べに行くというペナルティを課されたんだね、きっと!」
とか、もう、全てが氷解した後には、自分が何てバカなんだろうかと改めて悶絶するくらいの意味不明な妄想をしてしまうのでした。

いや、本当に、これ、冗談じゃなくて、そう思うんだよね、わたし…。
で、爽やか好青年からは、俺は嫌われているんだと思われるわたくしなのでした。苦笑
そして、人様に対して大変に失礼な事をしでかしてしまってるわけだよ、わたしは。
おとなげのない、非常に失礼な態度をとっているわけだよ…。
友だちに、
「あんた、バカだろ?」
って、言われても何も言い返せない。

そして、同じ失敗を何度繰り返しても、なぜか、人からの好意をそのまま好意と理解できないわたしなのでした。
自分でもほんっとーーーーーに、謎なんだけど。

「もう、鈍感という域を超えている!あきれる!」

と、友だちにびっくりされまくりっスよ。

「普通は、彼氏いるかどうか聞かれ、あんたがいないと答えるね、んで、連絡先教えて下さいって言われ、あんたが教える、で、後にお食事のお誘いがあったなら、それは好意アピールなんだから、その方程式を頭に叩き込め!!!」

と、説教された…。

そ、そうなのか…。

「彼氏いるの?」
なんて、今どき、
「今日はいいお天気ですね」
くらいの社交辞令だと思ってたよ。

メールアドレスや電話番号なんて、今どき、1、2回偶然に会えば社交辞令で聞かれるだろ、って、思ってたよ。
名刺交換くらいの気分だったよ。

それを聞いた友人は、ものっすごいあきれた顔をして、
「あんたは、何か悪い病気にかかっている!!!」
と、断言しおった…。

そうか…わたし、何かの病気なのか…。

三浦しをんを読んで、「あ~、わかるわかるその気持ち~!」とか言ってる場合じゃないかも。笑

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2008年3月23日 (日)

『悶絶スパイラル/三浦しをん』(太田出版)

昨夜、同い年の男友だち(妻子有り)から、夜の11時過ぎくらいに電話がかかってきた。

「どーしたんだ!?」

と、びっくりしながら電話に出ると、そやつの第一声が、

「あんた、早く結婚しなさい!」

だった。

なんなんだよ、お前は。
夜中に。
酔っ払ってんのか?

非常に意味不明なので、

「何ですか?」

と、敬語にすらなりました。

「あんたみたいな人はねぇ、早く結婚しないとダメだ!」

と、また何ですか?と言いたくなるような事を言い出す。

一体、お前は、何なんだ。

30分ほど会話をしたのだが、結局、世間話であり、かつ、若干、説教であった。

…キミは、わたくしの、お父さんなのですか?

心配してくれる友人がいるという事は大変ありがたいが、何なんだ。
しかも、夜中に。
目が冴える。
そーいう事は、せめて、みんなで飲み会してる時に言ってくれ。

目が冴えたので、積読本の山の中から三浦しをんを引っ張り出す。

あまりにもおもしろすぎて、夜中に爆笑しながら、気づくと読み干してしまった。
そんな夜中の2時…眠たい…。
今日は仕事が休みだったのでいいのだけれど、午前中に用事をすませ、夕方に思わず昼寝ならぬ夕寝をしないといけないくらい眠たかった。

おそるべし、三浦しをん。

いや、今回ばかりは同い年の男友だち(妻子有り)のせいか!?

三浦しをんさんという作家は、プロフィールを見ると、わたしよりも1つ年下の女性である。
それでなのかどうなのか、考え方が、非常に共感できるというか…。

わたしの周囲にも、隠れしをんファンが実はたくさんいる事を最近知った。
わたしが、しをんさんの本おもしろいなぁって言ってると、実は実はとわらわらと同世代の女子たちが手を挙げるんである。

あぁ…。

そして、こんな事を書いては何ですが、しをんさんのファンだと言う女友だちたちは、なぜか全員「未婚者」です。

そして、冒頭の男友だちの若干説教電話を思い出すわたしなのでした。

読んでいただければ分かりますが、三浦しをんというおなごが、なぜ、「結婚できないのか」という理由、わたしは、客観的に見ると、非常によく分かります。
そして、彼女と同じようなおかしな妄想スパイラルな女であるわたくしが、同じく結婚できていないという現実も、しをんという女性を通して非常によく理解できるのである。

分かりたくないが、分かる。笑

男子目線から見て、わたしみたいなおなごを彼女及び妻として所持したいかどうかと問われると、「NO!」と、言いたくなる気持ち、非常に客観的によく分かるのです。

人のふり見て我がふり直せ。
先人はちゃんとそう言っている。

友人たちとの飲み会の席で、

「俺は、女子におもしろさを求めてない!」

「あんたが裏表のない人間だというのはよく分かるが、それと同時にフェロモンもない!」

「嘘でもいいから、俺は女性に幻想をいだきたい!騙されたい!」

と、もう何だかよく分からない事を言い出すヤツまでいる始末である。

ああ悪かったな。
幻想をいだかせられない女子で。笑

つまりは、わたしは、「anan」風に言えば、「友人どまりの女」なんだろうな。笑

若槻千夏ちゃん、仲良くしましょう!

って、千夏ちゃんに失礼だ。
千夏ちゃんは、可愛いぞ!

おもしろいというのは、褒め言葉ではなく、この場合、非常に近い言葉は、「ズレている」、これである。

世間ではもう少しソフトに、「天然」という言葉が用いられていたりするようですが、わたくしの周囲の男友人どもは、その辺あんまり容赦ない。l

「あんた、ちょっとズレてる。何かムカつく!」

というストレートな表現をなさる。笑

そして、先日、父親からもそのようなストレートな表現ではないけれど、それに近いお言葉を頂戴した事件がありました。

父の好きなテレビ番組に、「熱中時間」という番組があります。

とにかく、いろんな事に熱中している全国の奇人変人様たちが出演なさる番組であります。
鉄道マニアなんか序の口!って、感じの盆栽マニアとか鉄塔マニアとか団地マニアとか何かよく分からない人たちがたくさん出てきます。
そういう方々は、なぜか圧倒的に男性が多いのですが、その中に、珍しく若い女性が出演した事がありました。

その若い女性は、塀の写真を撮影してまわっているのです。
路地裏等の「塀」のシミ・汚れ・穴・ペンキ跡等の微妙な具合を発見すると、撮影して現像する。
その写真を見ると、まるで前衛アートの様相すら呈しているので、わたしは、これなら、何だか生産的で共感できるなぁと思って見ていたのですが、まぁ、それはさておき、この女性の雰囲気が、やっぱりちょっと微妙なんである。

一見、今どきのおしゃれな若い女性といえない事もないけれど、失礼ながら、やっぱり、微妙にズレている感じがし、変な人だなぁと思いながらテレビを見ていた。

強いて言えば、浮世離れした感じ。

「あたしの主食は、どんぐりなの、えへ」

って、言われても、「あぁそうでしょうとも」と、納得できそうな感じの(どんな感じだ?)の、微妙にフェアリーな女であった…。

しかし、寝転んでテレビを見ていた父が、いきなりガバッと起き上がってきて、わたしに言い放った。

「わし、この人を見ると、何だかお前を見てる気がする。何て言っていいのか分からんが、何だかどうしてもお前にしか見えん!」

と。

おとーさん…。

これ、この番組でこの女性を見た人にしかニュアンスは全く伝わらないのは百も承知ですが、親に改めてそう言われたわたし32歳の気持ちは、非常に複雑でしかありません。

言われて数日経った今でも思い出すくらいですから。


しをんさん本人も言っている(そのまま書き写すのは何なので、若干、アレンジしてます)。

「この生き方に後悔していないかと問われれば、後悔している!と答えるしかない!しかし、同時に楽しいのも確かだ!だが、修羅の道だ!ナメんな!」

と。

どんぐりが主食なの、えへって言いそうな雰囲気の女とは誰も所帯を持ちたいとは思わないであろう、そう冷静に判断するわたし。
そして、三浦しをんの本を読んで爆笑かつ共感できているわたしの女友だち全てへエールを送りたいと思います。

もう、そのままで生きるしかないんだよ!笑

思わぬ説教電話で少しだけまじめに(?)考えてみたおいらでした。
でも、結局、生き方を変える気はない。笑

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2008年3月20日 (木)

『日本幻想文学集成13 小川未明/池内紀・編』(国書刊行会)

しつこいようですが、わたしが小川未明の作品と出会ったのは、小学校の教科書に載っていた「野ばら」という作品でした。
挿絵が司修さん。

小学生だったわたしは、司修を全く認識していなかったのですが、おとなになってから、ふと思い出した絵を想うに、あれは司修さんの版画だったのではないかと勝手に思っています。

小学4年生の時、父に、『新版 宮沢賢治童話全集11 銀河鉄道の夜/堀尾青史・編』(岩崎書店)を買ってもらった。
表紙絵が、安野光雅さんで、挿絵が司修さん。
なぜこんなにも詳しく分かるのかというと、まだその本がわたしの家の書架に残っているからだ。

そして、教科書に載っていた「野ばら」の挿絵の脳内おもかげが、司氏の版画にすごく似ているので。

この2つの出会いで、わたしの中では、「銀河鉄道の夜」の世界は、今もずーっとモノクロの銅版画で想像される。
ジョバンニもカムパネルラも、わたしの脳内では釘でひっかいたようなモノクロの色っぽい少年たちだ。
南十字星もモノクロだ。
もちろん、天空を走る列車もモノクロだ。

それほどまでに、司さんの絵は子ども心に強烈に印象が深い。
妙に色っぽいんだもの。

小川未明の「野ばら」の挿絵もそうだ。
国境を守る、老いた兵士と若い兵士。そして、ラストのページにいっぱいに描かれていた野ばらの挿絵。
やはり、モノクロなのだが、なぜか、わたしの記憶の中では、空は水色だ。
若い兵士が大きな馬に乗り、野ばらをかいで、老兵士に会釈する場面が挿絵になっていた記憶がある。
その若い兵士の横顔が、とても美しかった記憶がある。
それで、小学生だったわたしは、妙にこの「野ばら」という作品が気に入った。

「赤いろうそくと人魚」や、「金の輪」が有名かもしれないが、わたしにとって小川未明といえば、「野ばら」。

今回、この作品集を読んでいて、初めて「金の輪」が輪廻転生の話しだと気づいた…。
鈍いなぁわたし…。
というか、改めて読めば感じなくても、ものすごくストレートに文字で表現してあった…。
自分の読書力を少々疑った。苦笑

「戦争」という作品も気に入った。
ものすごく皮肉に満ちた作品だ。

世の中に戦争なんて起こっているわけがない、なぜなら、こんなにも連日のように、今日は何十人死んだ、今日は何百人死んだ、子どもが虐殺された等と新聞記事に載っているのに、誰も彼らを助けようとしないからだ。
特に驚くわけでもなく、皆、自分たちの日常生活を営んでいっている。
もし、本当に毎日のようにそんなに人々が死んでいっているのなら、我々は、こんなに平気で飯を食ったりしてのん気に生きていられるわけがないのだ。

というような事を主人公の男が述べ続ける。

読みながら、ううむと思う。
ものすごい皮肉に、いたたまれなくなると同時に、この作品をどう収集つけるのだ…と、心配にもなってくる。

小川未明の作品は、いっぺんにたくさん読むと、なかなかに説教くさい…という事に気づく…。
でも、幻想的なのだ。
うーむ、不思議。
この幻想的さと皮肉さと薄暗さは、他の作家には確かにないものだと思ったりする。
他の幻想的な作家は、もっと透明度があったり、華やぎのようなものがあったりする気がする。

暗闇があるなぁ…。
でも、それは、わたしの脳内で、司修氏の絵に変換されているからかもしれない。

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2008年3月13日 (木)

『生かされて。/イマキュレー・イリバギザ』(PHP研究所)

1994年に起きた、ルワンダでの大虐殺を生き延びた女性の手記。

大量虐殺という、ちょっと想像もつかないような残虐な行為に向かっていく人間の心理が、この本を読むと、かなり詳細にかかれている気がする。

人を殺す、残虐な行為を相手にする…それは、やはり、相手を尊敬し敬い愛していては行えない行為なんだと改めて思う。
フツ族がツチ族に対して行った虐殺は、根底に民族差別があり、それを権力者がうまく利用し、情報操作をし、このほんの十数年前の大虐殺が起きた。

1994年なんて、ほんのつい最近だ。

どんなに文明が発達していても、世界中に平和を愛する気持ちが蔓延しているかのような錯覚を起こしていても、世界のどこかで信じられないような残虐行為がおこなわれている。
そして、そのSOSを、他の文明国はすぐに手を差し伸べる事すらできないでいた。
ツチ族が全滅するかのごとくになってから、やっと他国の軍隊が人々を救いに出動する。

でも、その時は、もうすでに遅いというか…あと数日遅かったら、この手記を書いた女性も、もしかしたらこの世にはいなかったのかもしれないと思ったりもする。

この女性は、敬虔なカトリック信者で、自分の命があるのは、神様のおかげだとひたすら書いているし、それは別に間違いではないと思う。
彼女は父母も兄弟も全て失った。
しかも、普段は仲のよかった近所の人たちに、両親や兄弟を殺されたのだ。
彼女は彼らを恨むどころか許している。

わたしは、それを宗教観の違いとは思わないし、彼女のその姿勢を、わたしはただひたすら尊敬する。
彼女が丁寧に手記を書いているおかげで、わたしは、その姿勢が信仰心だけに支えられているものではないと思える。
彼女は精神的にとても強い人なんじゃないかと思う。

でも、一度始まってしまうと、一個人の努力だけではどうにもならない、虐殺という暴挙。
2度と起こらないように、全世界が学ばなければならないと、と、改めて思うしかない。
始まる前なら、1人1人の心の中で解決できるのではないだろうか。
それは、もしかしたら、ほんの少しだけ自分の心を強く保つだけでいいような気がする。

でも、それは簡単に見えて、すごく難しい事かもしれない。
人と一緒じゃないと恥ずかしい、とか、人が悪口を言っている人たちと仲良くしたら、自分も仲間外れにされるんじゃないか、とか、自分は本当はそれほどでもないけれど、みんなが嫌っているから嫌ってるふりしとこうかな、とか。

誰だって、一度や二度はそんな経験あると思う。
心当たりがあると思う。
学校でも、職場でも、家庭でも。
でも、それが、本当は、自分を大切にしていない行為だと気付く事が必要なんじゃないか、と、彼女の手記を読みながら思った。

人の心はとてつもなく美しいけれど、とてつもなくか弱く、とてつもなく恐ろしいこともやってのける。

この手記を書いた女性のような愛を持てるような人にならなきゃなぁと、思ったのだった。
けっこう難しいけれど、そうやって生きた方が、実はけっこう楽な気がする今日この頃。

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2008年3月 8日 (土)

『谷川俊太郎質問箱』(東京糸井重里事務所)

糸井重里さんというコピーライター(?)が、ほぼ日刊イトイ新聞というホームページを運営しておられる。
もう、ホームページという枠を超えて、企業という感じだ。
そこからいろんな商品が生まれ出ている。
この本もそんな1冊だ。

詩人、谷川俊太郎さんが、読者(?)の質問に答えるという往復書簡的なものを、本にまとめたものだ。
詩人なだけに、その質問も返事も、詩のようだ。
ただ、読者(?)とのキャッチボールをするので、全くの詩というわけにもいかない。
あぁ、これは闘いがいのある作業だったんだろうなぁという生意気な気持ちで読んでしまった。

わたしは、高校生の頃、谷川俊太郎さんの詩集を読み漁った。
うーん、この人はなんなんだろうと、思った。
詩人でしか生きられなかったと、本人を書いているけれど、本当にそうかなぁ。
詩人という生き物だったとしてもだったとしなくても、谷川俊太郎さんは谷川俊太郎さんなんじゃないだろうか…それが、詩人という存在感なのだろうか。

以前、この人が小室等さんと一緒に詩の朗読&コンサートというもので地元のホールに来た時、聞きに行った。
この人の詩は、「ライブ」だ、と、何となく思った。
コンサートだけれど、何をどう歌うのか、何をどう朗読するかは、全てその瞬間に決めているようだった。
どこに座るのかも、どこに立つのかも、照明さんも舞台美術さんもかたなしなくらい、この人は自由にステージ上を歩き回って飛び跳ねていた。
ただ、詩を朗読するという行為なのに、広いステージが狭く感じた。

こんな動き方をする人をもう2人知っている。
女優の樹木樹林と、劇作家の野田秀樹。
もしかしたら、谷川俊太郎さんは、詩人というよりは俳優という存在に近いのか?
それとも樹木さんと野田さんが、俳優というよりは詩人という存在に近いのか?
何にしろ、すこぶる不良な感じのおとなたちのにおいがプンプンする。

谷川俊太郎さんに質問をしようとは思わないけれど、わたしは、わたしの中で、わたしのどこかにある詩の部分で、自分の疑問に回答を出して行こうかなぁという気持ちになった。

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2008年3月 4日 (火)

『〔定本〕 これぞ日本の日本人/松尾スズキ』(ぴあ)

笑いすぎて腹筋が痛い…。

劇作家、松尾スズキさんのエッセイ集。
関西ぴあに連載していたもの。

だいぶ前になるので、話題はちょっと古かったりするのですが、この松尾さんの、このスズキさんの、えもいわれぬ謎の文体で、ぐいぐい読まされてしまいます。

存在感といい、文章運びといい、言葉選びといい、松尾スズキ以外の何者でもない強烈かつ生ぬるい個性…。

日本人の個性というか、没個性を、たまには切り取りにくいヤバイ話題を生ぬるく、でも、鋭く…あぁ…何を書いているのか自分でも分かりません。

だって、この松尾スズキという人の切り口が、生ぬるいのにヤバイくらいに鋭いからです。
それは、この人のお芝居にも同じ事が言えます。
ものすごくへヴィーなテーマを、生ぬるく、でも、ガッシリと観客に伝える才能のある、ヤバイおっさんです。

素敵だ。
でも、素敵だけれど、手に負えない人の気配がムンムンとしている。
そっと、遠くで見つめていたい。
そんなおっさんでのエッセイ集です。
ごめんなさいよ。

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2008年2月27日 (水)

『魏志痴人伝/古田新太』(メディアファクトリ-)

俳優、古田新太が、雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載していたエッセイを単行本化したものです。

何を隠そう、わたしは古田新太さんの大ファンです。
友人たちから白い目で見られながらも、劇場に足を運び、ドラマやバラエティに出ると分かればテレビの前に座り込みます。
何で白い目で見るんだ。
失礼だ。
この世に、こんなにすごい俳優がいるだろうか!

あくびの中で大絶賛です。
ほんっとーに、大好きなのです。
目の前に、赤西仁くんと古田新太がいて、どっちかとしか握手できないという究極の選択を迫られた場合、(どんな妄想だ…)わたしは、迷わず古田新太の手を取って、上下にシェイクします。

一度、劇場で、最前列というものすごいラッキーな席が取れた時、わたしは、古田さんがあまりにも眩しくて照れてしまいました。
かっこよすぎる…かっこよすぎるよ、新太…!!!

誰も賛同してくれないけど。

そんなわけで、単行本が出たら即買いです。

もう、2回も読み返してしまいました。
通勤列車の中で帰るのを待ちきれずに読み出したのですが、あまりの事に大爆笑しそうになって本を閉じてしまいました。
危険な本です…。

まぁ、正直、下ネタ満載なんですけどね。

とても、乙女が人前では読めないような内容も多いんですけれどもね。

でも、何というのでしょうか、俳優ならでは?の、文章のリズム感がよくて、ものすごくおもしろいです。

表紙と挿絵が、山本タカトさんです。
無意味にきらびやかです。
表紙の古田氏の似顔絵(?)すらも、無意味に豪華絢爛です。

全てがシュールなこの一冊。
ファンじゃなくても楽しめます。
でも、ファンだとその100倍楽しめます。

さ、もう1回読もうかな~?

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2008年2月26日 (火)

『となりの姉妹/長野まゆみ』(講談社)

長野まゆみの作品は、高校生くらいから好きで、ずっと読んでいる。
新刊が出れば、とりあえずチェックしている。

最近は、だいぶ作風が変わったので、すぐさま読もうとは思わなくなったが、それでも、全部読んでいる。
わたしの本棚は、一つ、長野まゆみコーナーになってしまっている。

初めて、長野さんの作品を読んだのは、図書館で見つけた『野ばら』という作品、デビュー2作目だと思う。
デビュー作は『少年アリス』だ。
わたしは、当時、「野ばら」という、とある児童文学作品を読んだばかりで、その作品がとても気に入っていたので、同じ題名の本に魅かれて借りた。

そして、美しい単語と、現実にはいないような妖精じみたおかしな少年しか出てこない、何だかこの世のものとは思われぬ不思議な作風にハマって、以来、読み続けている。

数年前からは、おとなの女性が出てきたり、グロテスクな表現も加わってきた。
けれど、透明感と湿気が混在する、不思議な世界観は変わっていない気がする。

「となりの姉妹」は、主人公の女性の隣の家に住む、姉妹とのしりとりめいた交流だ。
近所の老婆が亡くなって、形見分けの中に、姉妹への贈り物が見つかるところから始まる。
今まで何でもなかった、ただのご近所さんでしかなかった人間関係が、しだいに明らかになっていく。
そこには、どろどろしたおとなの事情なるものも存在するのだが…。

これは、大きな事件だと思うのだが、しかし、登場人物たちは、いたって淡々とその謎を解く。
必死さは微塵もない。
これが長野作品の味のような気がする。

事件解決後も、彼ら彼女らは、特に生活を変えるわけでもない。
姉妹の内、1人が結婚するくらいだ。
家も出ず、婿を迎えるという形で。

姉妹の姿が、大きな白蛇がとぐろを巻いて悠然と座っている姿に感じられてくる。
こわいこわい物語のはずなのに、誰も声を荒げたり表情を変えたりしない。
わたしは、人間関係の泥沼を、ずっと俯瞰しているような気になってくる。

これは、何だか何と言っていいのやら。
こういう書き方もあるのだなぁ。
でも、これは達者な人だからこそ、読ませられるわけで、中途半端に書くと、とてつもなくおもしろくない作品になる危険性すらある。
でも、長野さんの筆運びの色気で、読まされてしまう。
水もしたたる筆運び。

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2008年2月 9日 (土)

『仏果を得ず/三浦しをん』(双葉社)

「あやつられ文楽鑑賞」で、すっかり三浦しをんという作家の虜になったわたしは、早速、その突撃文楽レポートで培ったミーハー心(失礼!)で、書かれているはずのこの本を手に取りました。

文章は軽妙で、今どきの若者言葉なんぞもふんだんに使われているし、果たして普遍性という面ではどうなんだろう?などと、ついつい批評眼で読んでしまっていたけれど…結局、あぁ…また興奮させられてしまいました。
ラストに近づくにつれ、主人公の健(たける)という、若い義太夫の気持ちにシンクロしていき、けっこうテンションあがります。
健の相方三味線弾きである兎一郎の三味線の音が、脳内にジャンジャン鳴ります。

三味線の音が聞こえる中、健の義太夫が最高潮に達して、そして、彼の「仏果を得ず!!!」という、真の考えを読者が気付いた時に、この本のタイトルが、改めて心にストンと落ちました。


あ~ぁ、うまいね、このしをんとかいう人。
好きなように書いているような感じなのに、ちゃんと計算し尽されている。


ストーリーは、健というまだペーペーの義太夫が、恋をしたり、修行の道に悩んだりしつつ、「文楽」という世界で一生生きていくと決意を新たにするまでのお話し。
青春ものといえば、そうかも。

そこに、健の師匠である、銀太夫という一筋縄ではいかない爺さんや、健をなかなか認めようとはしない、クールな三味線弾き兎一郎、小学生のミラちゃんに、その母親である美しい未亡人真智さんなどが出てきて、主人公を悶々とさせます。

何がおもしろいかって、主人公の感情表現が、ほとんど、文楽の登場人物になぞらえてある事。
というか、この小説は、そういう風に書くしかないのだとは思うんだけれど、それがちゃんと違和感なく、物語に入り込んでいる。

大きな筋では、健が一瞬で恋に落ちてしまう未亡人真智さんとの関係を、「女殺油地獄」になぞらえているのがドキドキです。
人妻お吉に恋をしているチャライ若者との関係を、ふと思い出します。
そして、文楽では、殺人事件に発展するので、え?!この小説は、青春小説と見せかけて、実はミステリーになっちゃうんだろうか!?なんて、ドキドキしながら読んでしまいました。

って、そんなトンチンカンな事を思ったのはわたしだけ?

でも、その結末を、全然、そんな血みどろな結末にはせず、しかし、もっともっと納得のいく形でラストシーンに向かわせた作者の手腕に拍手です。
ちょっとベタ惚れすぎるやん、わたし。
そんなに褒めていいかなぁ…分からん。

文楽という狂気にはまりこんだ健や兎一郎たちの、芸の鬼とでもいうべき、脳内血みどろデスメタル感が、ものすごく爽やかに表現してあります。
けっこう、すさまじい地を這うようなラストなんですよね、実はこの作品って。
でも、すごく生きるパワーに満ちたラストだと思った。
そして、生きるってそういう事だよな!と、思うのでした。

やっぱりしをんにメロメロなわたしなのでしたheart01

というわけで、今日も絵文字を付けておこう。

では!

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2008年2月 5日 (火)

『あやつられ文楽鑑賞/三浦しをん』(ポプラ社)

三浦しをん、恐るべし…。

って、一行目から何を書いているんだろうわたし。

わたしの三浦しをんさんという作家のイメージは、
「あぁ、この間、直木賞とった人ね」
くらいだったんですが、そして、その本読んでないんですが(読めよ!)。

演劇はもともと好きなので、文楽の本を読んでみようとわたしが思うのも、まぁ、別に不思議はないとは思うのですが、なんかこのタイトル、ちょっとムカつきませんか?
「あやつられ文楽鑑賞」て。

あー、何かおもしろいんだろうな、この人の本…と、思うしかないじゃないか。

文楽の人形は、あやつり人形なわけで、そして、この筆者は、そのあやつり人形にあやつられてしまうほどに、おそらくは文楽の魅力の虜になっているんであろうという事がタイトルからしてもう分かってしまうのがずるい!と、思って、仕方がないから本を読み始めました。

結論から申しますと、はっきりいって、わたし、三浦しをんさんという人の文章が好きになりました。
そして、文楽にも必要以上に興味津々になってしまいました。
そのうち、文楽観に行っちゃったーってブログに書く日が来ると思われます。
あー、こわい。
演劇鑑賞の趣味だけでもなんていうのかお金のかかる趣味ですのに、あーぁ。

筆者が、文楽の楽屋に突撃インタビューするところから始まり、過去の文献を読み漁り、舞台へ足を運び、「文楽」という世界に生きる人々の姿を活写している本です。

芸術に携わる人々の、普段はうかがい知る事のできない姿を見る事でもあり、そして、古典というものへの高い高い垣根をガッサリと倒してしまうほどの勢いあるレポートです。

それにしてもね、前から思っていたんですが、「女殺油地獄」っていう演目、すごくないですか?
わたしは、このタイトルに、ものすごいハードロックなメタルな雰囲気を感じ取ってしまいます。
デスメタルサウンドを感じます。
江戸時代の人のセンス、かっこよすぎ。

と、思いながら読み進めていると、文楽の太夫さんのインタビューの中で、
「あの人の三味線には、エレキを感じます」
という言葉が出てきたりして、やっぱそうなんじゃん!
文楽にもロック魂あるんじゃん!
と、一人で勝手に思い込んで興奮しているわたしなのでした。

何かもうおもしろすぎて、本当にオススメ本です。
すげぇよ、あんた、三浦しをんとかいう人!!!(失礼な)
そして、この突撃文楽楽屋訪問!!!の経験を経て書かれた小説が、『仏果を得ず』なんだそうで。
ただでは起きない(いや、最初からコケてはいませんが)、素晴らしい作家魂でございます。
読むしかないじゃん、ブッカも。

メロメロです。しをんにメロメロheart04

何だかいつの間にか絵文字が使えるようになっているので、使ってみました。
では。

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2008年1月29日 (火)

『天章院篤姫㊤㊦/宮尾登美子』(講談社)

今年の大河ドラマの原作ですね。

大河ドラマはわりと見る方ですが、一応、時代劇好きとしては、原作を読んだのは初めてです。

(ショウが変換できなくてすいません…後日、どうにかします…。)

大奥というもののしきたりというか、江戸時代の女性の立場のなんという不自由さか!と、読みながら何度も何度も驚きました。

トイレに行くのも侍女つきで。
排泄物を侍女に見られ、その日の体調を殿に申し上げられるんである。

ぜ、ぜったいにいや!!

それを昔の姫君たちは、はいはいと聞いていたのか…というか、逆らえなかったのね…。

篤姫が大奥へ入ってからも、しきたりの連続で、夫である将軍にすら遠慮して接するしかないし。
まずは、お付のものたちが何百人といるので、自分の意思が将軍なり、誰かに伝わる頃には、かなり内容が換えられていて、なかなか自分の意思が人に伝えにくいという状況。

それが政治の道具としての女の立場なのか…と、読んでいて悶々とします。

どんなに真っ直ぐで素敵な女性であっても、相手は真の姿を知らなかったりする場合は山ほどありそう。
そして、そのまた逆もありそう。
姫君というか、御台所という存在は、誰でもいいのかもしれない…とすら、思えてくる。

そこに、女の姿をした人形を座らせておくだけの存在。

けれど、この篤姫という人は人形でいる事を拒否した人として、この作品の中では描かれていく。
そうでなければ、この現代には受け入れられないとは思うんだけれど。


時代物というと、お侍さんが主人公の作品が多いけれど、姫君が主人公だと、またかなり違った視点で歴史を見る事ができておもしろいですね。

大河ドラマの方は、今のところ瑛太さんが狂言回しのような存在でいて、ちょっとコメディタッチな演出ですが、篤姫が晩年に近づくにつれ、重厚な感じになっていくのでしょうか。

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2007年11月14日 (水)

『まんまこと/畠中 恵』(文藝春秋)

畠中恵さんの時代物。

町名主の跡取り息子である、麻之助と、またもや同じく町名主の跡取り息子で悪友の、清十郎と、武家の息子吉五郎の3人トリオが、江戸の町に起きる事件に挑む!

町名主とは、言葉は違うかもれないけれど、何というのか、家庭裁判所みたいなもんでしょうか?
もっと、こじんまりとしたものだとは思うのですが。
詳しくないもので、あしからず。

あいかわらず、畠中さんのとぼけた文章と、たまにしんみりくる文章と、そんな血みどろの大事件ではないけれど、それなりに切ない事件が繰り広げられる。

主人公の麻之助は、昔は真面目で優秀な、さすがは町名主の息子さん!と、誰もが褒め称えるような若者だったのだが、ある大失恋により、町一番の遊び人へ大変身してしまう。
でもって、もともと遊び人だった清十郎と意気投合し、ケンカに女にと明け暮れる、ちょっと遅い不良デビューをしているわけである。
まぁ、まったくもって青臭い男なんであるが、何だかそれが鼻につかないというか、憎めない感じなんである。
親にしてみれば、まったくもって困った息子であろうけれども。

そういう、憎めない感じの作品が、畠中さんの作品なのかなぁと、思う。

事件の犯人たちも、何て事するんだとは思うけれども、麻之助たちが、サラリと裁いてしまうので、それはそれ、あぁ一件落着と思うのである。

考えてみれば、一件落着と読者に思わせるのは簡単じゃない事だ。
読者が事件の解決と、事件後の人々の納まりように納得がいかなければ、お話しは成立しない。
おさまらないなりに、おさめる方法もあるだろうけれど、この手の人情捕物帖だと、おさめなきゃいけない。
サラリと読みつつ、何だかそんな事に改めて感心していたわたしなのでした。

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2007年11月10日 (土)

『独断流「読書」必勝法/清水義範・西原理恵子』(講談社)

世界の名作文学を、作家の清水義範氏と漫画家の西原理恵子氏が、10代から20代前半の若者へ向けて解説する本です。

でも、西原さんの漫画が随所に組み込まれていて、下ネタ満載どぎついギャグ満載で、思わず吹き出し気味で読んでしまいました。

解説されているのは、「坊ちゃん」から、「ロビンソン・クルーソー」、「嵐が丘」、「罪と罰」に、「ボヴァリー夫人」、そんでもって、「金閣寺」…。
とにかく、一度は目にした耳にした事のある作品ばかり。
最初は真面目に解説していた清水氏も、次第にサイバラ節に毒されてきて調子のってきてるのがよく分かっておもろいです。

これは、解説本なんで、解説本に解説するっちゅーのも何ですので、読んで下さい。
気になる作品だけを読んでも別にいいかもしれません。

装丁が、大学受験用の赤本チックなのもおもろいです。

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2007年11月 6日 (火)

『つくもがみ貸します/畠中 恵』(角川書店)

しゃばけシリーズで人気の畠中恵さんの、新しい妖怪時代物。

おもしろい!!!
もしかしたら、しゃばけシリーズよりもおもしろいかもしれませんよ!!!
主人公が病弱じゃなく、若くて元気な若者なので、それがまた痛快な感じになっているのかもしれません。
でも、彼にも複雑な恋の悩みがあったりするので、読んでて切なかったりもしますよ。

つくもがみといえば、古い家財道具に神(妖怪?)が宿り、動いたりモノをしゃべったりするようになる現象ですね。
んで、主人公の若干二十歳ほどの清次と、その姉のお紅は、大火で死亡した父の古道具屋を引き継ぎ、貸し道具兼古道具屋を細々と営んでいるという具合。
家財道具を貸し出すという風習が江戸時代にあったというのがおもしろい。
火事の多い江戸では、どうせ失う家財道具ならば、必要な時に借りればよいという考えがあったようだ。
それから、ちょっとおしゃれで見栄を張りたい時などに、根付やかんざしを借りたり。
今だって、そういう商売はありますもんね。
それかから、お得意さんにはいわゆるお茶屋さんがある。
お茶屋の女性が使うかんざしなどもそうだが、何とふとんまで貸し出していたというのがおもしろい。
お客が来ると、はいふとんを届けて下さいよと言われ、清次は風呂敷にふとんを包んでよっこいしょと出前に行くのである。
へぇ~へぇ~へぇ~。

さて、そんな古道具屋貸し道具やの店内には、物言う道具たちが何個か…いや、何人かいて、店先で清次やお紅、客たちのやりとりを聞いては、江戸の町に起きる不思議な事件を解決していくというもの。
清次もお紅も、どうも物言う道具たちがいて、人間の会話を聞いては自分たちの意見をあーだこーだと述べているな…というのは気付いていて、気になる事件があると、その事件のあった家や店へ、つくも神たちをレンタルするわけである。
で、彼らが見聞きしてきた事を、こっそりと店内で話しているのを盗み聞き、事件を解決するというもの。

つくも神と人間は決して口をきいてはならないというルールを畠中さんは作っていて、お互いが話しをできない状態の中で、彼らがいかにしてコミュニケーションをはかり、一緒に事件を解決していくのかを工夫して書いておられて楽しいと思わせられてしまうのである。

何でもシリーズ化すればいいというものでもないのだが、ぜひぜひ続きが読みたいと思いました!
清次とお紅がこれから先どうなっていくのか、そしてつくも神たちがどんな活躍をするのか、もっと知りたい!

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2007年10月23日 (火)

『似せ者/松井今朝子』(講談社)

松井今朝子さんの時代物にはまっている今日この頃です。
歌舞伎を素材にした作品が多いので、お芝居好きにはたまらないです。
それに加えて、落ち着いた筆致と地味ながらも、登場人物の心理がひしひしと迫ってくる感じがとても素晴らしいと思うのでした。

この本は短編集で、
「似せ者」
「狛犬」
「鶴亀」
「心残して」
の4編が収録されています。

表題作の「似せ者」は、団十郎の死後、不景気な芝居小屋を立て直そうと必死になり、田舎芝居で団十郎に容姿が似た役者を見つけ出した男が、これでもう一度、芝居に活気を取りもどそうとする話し。
男は、今でいうところの、役者付きのマネージャーといったところ。
身辺のお世話から、日程調節まで全て行う。
もちろん、愛人のお世話まで、である。

団十郎にそっくりのニセモノだと分かっていても、観客たちは、在りし日の役者を思い出し、舞台には再び活気が戻ってくる。
芝居関係者たちも、ニセモノの団十郎を最初は胡散臭げに見ていたが、マネージャーのあまりの必死ぶりに、ひとつ盛り立ててやろうではないかと思いはじめる。
やがて、ホンモノの団十郎のかつての愛人、初音に会わせる。
初音は、ニセモノを見て一言。
「全然似ていない」
と、笑い飛ばす。

しかし、やがて、ニセモノの男と初音は恋に落ち、マネージャーの思わぬ結末が訪れる。

ニセモノとしてなら、観客からやんやの喝采をあびられる一人の役者と、団十郎の愛人として生きてきた一人の女が、何ともいえず読んでいて切なくなってくる。
なんて馬鹿なんだ…もっと、別の生き方だってできるんじゃないのかと、思ってしまう。
けれど、それを見守るマネージャーの気持ちも分からなくもない。

馬鹿で、でも、その一生懸命に生きる姿が切なく、また、この人の本を読んでみたいと思わせられる。

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2007年10月20日 (土)

『マジカル・ドロップス/風野潮』(光文社)

中学の卒業前にクラス全員で埋めたタイムカプセル。
クラスの皆、それぞれの思いの詰まったカプセルの中には、菜穂子・真由美・美智の仲良し3人組の思いも詰まっていた。
45歳になった時、みんなで開けようと誓い合ったタイムカプセルは、しかし、全員そろって開けられる事はなかった。

高校入学間際の真由美の死と、そこから目をそらすようにして生きてきたその後の菜穂子の人生は、やがて、再びまた交じり合う。
美智が、校舎移転のために少し早めに開けられたタイムカプセルの中身を持って菜穂子に会いに来たのだ。
カプセルの中には、真由美の入れたドロップの缶が入っていた。
彼女は、そのドロップを、「マジカル・ドロップス」と呼んでいて、45歳のみんなが一つずつなめたら、15歳の時のみんなに戻れるかもしれない魔法のドロップかもね、なんて言っていたものだった。

読み始めて、すぐに涙が出そうになる。
風野さんの文章は、明るくからっとしているようにみえて、実はすごく切ないと、わたしは思う。

菜穂子は、今や高校生の息子と中学生の娘を持つ母親だ。
15歳の時とはうってかわって、スリムな体型はどこへやら、ずいぶんと太ってしまった。
自分で輸入雑貨店を経営し、華やかな外見の美智とは、また違う人生を送っている。
何か鬱屈を抱えたまま、けれど、日々を無難に過ごしている。

息子は、高校の仲間たちとバンドを組んでいるが、3人の仲が良すぎるために、いつもボーカルが決まらないようだ。
娘は、部屋にこもっていつもパソコンをいじっているようだ。母の菜穂子が何を言っても不機嫌そうにしている。

そんな菜穂子が、真由美の残したドロップをなめた瞬間、何かが変わった。
読者の「こうなってほしい!」という思いを裏切らない瞬間と、裏切る瞬間との絶妙なバランスで、ぐいぐいと読んでいってしまう。

マジカル・ドロップスは確かに魔法かもしれない。
でも、その魔法は必然の魔法。
菜穂子もその息子や娘たちも、自分で自分に魔法をかけたのかもしれないと思わせられる。
ドロップの魔法がありながら、最後の解決は菜穂子たちの自力で行われるところがすごくいいと思った。
もしかして、こうやって都合よい解決方法があるかも!とか、安心したくなる読者を、
「ううん、そうじゃないんだよ。こうやって自分でうんうんうなって頑張って解決した方が、もっともっといい未来が待っているんだよ」
と、押し付けではなく、さらっと教えてくれる。
素敵な1冊です。

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2007年10月 8日 (月)

『男子/梅 佳代』(リトルモア)

梅佳代さんの写真集。
素朴でユーモラスな写真集を出されていて、おそらくは若い方を中心に人気の写真家さんと思います。

小学生男子たちのはりきりすぎておかしな顔がどのページにも満載。
ああ、いたよね、クラスにこんな奴という懐かしさ。
それと同時に、会社への行き帰り、道で出会う知らない小学生男子たちの元気な姿も思い出す。

「あぁ、いいなぁ。元気でお馬鹿ちゃんで」
と、愛おしい気持ちになる写真集です。

梅佳代さんの短いあとがきもいい。
全てを物語っているんじゃないのかなぁ。

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2007年9月15日 (土)

『赤朽葉家の伝説/桜庭一樹』(東京創元社)

祖母、母、孫の三代にわたる、山陰地方を舞台にした物語。

時代は戦後から高度経済成長期を経て、現代にわたる。
たたら場で財をなした、赤朽葉一族に、「山の人」から置き去りにされた千里眼を持つ娘、万葉が、嫁入りし、毛毬というヤンキー娘を産み、毛毬が瞳子という娘を産む。
物語は、この瞳子の視点で語られていく。

時代の流れは、日本の現代史を忠実に再現しているが、登場人物たちはかなりデフォルメされている。

万葉は千里眼、つまりは予知能力を持った女である。
友人の兄の死や、舅の死、夫の死、息子の死をことごとく予見する。
その能力をかわれて、捨て子だった万葉は、赤朽葉家へ玉の輿する事になったのだが。

万葉の娘は、校内暴力の吹き荒れる時代に産まれた少女で、いわゆるレディースの親分となる。
バイクでぱらりらぱらりらと走り回り、ケンカに明け暮れる日々。
やがて、レディースを卒業すると、家族が驚くような職業に就くはめになるのだが、それは書かずにおきます。
おそらく、作者の桜庭一樹氏はこの時代に10代を過ごした方のように思う。
この時代の学校の様子が、当時、市内一のヤンキー中学に通っていたわたしには、ものすごく記憶するものごとが一致する。笑
言わなくてもお分かりいただけると思いますが、わたしはヤンキーじゃなかったですけれど。
高校に入って、
「え、学校ってこんなに静かな所だったんだ。知らなかった」
と、びっくりしていたくらいですから。

毛毬の娘、瞳子は祖母や母の特殊能力(?)を持っていない自分を恥じているようだ。
祖母が死に際に残した、「わたしは、本当はいい人なんかじゃないよ。人殺しをしたんだ」という言葉の意味を追い求めて苦悩するしかできないようだ。
結局、その真の意味を知ったとしても、瞳子にものすごく明るい未来が訪れるわけでもない。

この女三代の壮大な物語に終結はない。
そりゃぁ、そうかもしれない。
人の人生を人が終結づける事なんてできないのだろうし。
これは物語であって物語ではないもののようだし。

作者が以前、新聞のインタビューで、
「ガルシア・マルケスの百年の孤独のような物語を書きたかった」
と、答えていたので読みたくなった。
『百年の孤独』は、わたしは生きているうちに読めて本当に良かったと思った1冊だったので。

桜庭一樹さんという作家の作品は初めて読んだが、ひょうひょうとしてユーモアの見え隠れする筆致で、好感が持てるのでした。

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2007年9月 8日 (土)

『ヘルメットをかぶった君に会いたい/鴻上尚史』(集英社)

劇作家・演出家である鴻上尚史本人が、深夜にテレビ画面で目にした昭和の懐かしい映像の中で一瞬だけ映るヘルメット姿の女性運動家を見、学生運動の最中にありながら、信じられないほどの清々しく美しい笑顔にふれ、彼女はどこの誰で、今どうして生きているのかそれともいないのかをドキュメンタリータッチで追い求めるという「小説」である。

主人公の僕は鴻上尚史と名乗り、周囲もそう呼んでいる。
小説の中には、鴻上さんの高校時代から早稲田大学で演劇研究会として、早稲田講堂の「前」でテント公演を決行する場面も出てくる。
実際に、2000年代になってから、鴻上さんが上演した芝居や、自身が出演した舞台、そして、学生運動家や過激派の出てくる数年前に上演したミュージカルの話しも出てくる。
どこからがフィクションでどこまでがノンフィクションなのか分からない。
私小説と呼ぶのだろうか、こういうのを。
でも、ドキュメンタリーにも読める。
でも、明らかにこれは小説だ。

けれど、常に自分が世界の中心にいないと気がすまない人々には、これはノンフィクションにしか読めないかもしれない。

鴻上さん独特のユーモアと穏かさと切なさをズバリズバリと表現する方法で、物語は進行していく。

テレビ画面に一瞬映った美しい女性は、考えてみれば、当時は19歳そこいらの若い女子大生だったのだ。
学生運動の渦中にあり、その美しさと聡明さでおそらくはカリスマ的存在であった女性。
今はどうしているのか…次第に鴻上さんは、集団リンチの事実やその女性がもしかして、今だに国家から追われている存在なのではないだろうか…という現実に付き合ったって行く。

正直なところ、学生運動に特別な感情はわたしにはない。
親の世代の話しだとしか思えない。
鴻上さんは今、40代だから、わたしよりも物心ついた時に大学構内でその余韻を感じてはいただろう。
その思いがこの小説を書かせたのは当然だろうけれど。

読んでいるうちに、これは何だろう?という思いが溢れてくる。
学生運動や政治や戦争や平和の事を書いているのではないようだ。
これは恋の物語なのだ。
そう書くと何だチープなと思うかもしれないけれど、そうではなくて…1人の人に惚れるという事は、その人の存在、人生、生き方に惚れるという事、そしてそこには自分の生き方、生きてきた事を反映しているという事…というような事が小説の中には書かれていた。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
そうだ!と、断言するのがわたしには危うい事のようにも思える。
人の人生に自分の人生を反映させたりすると、何だか宗教的でこわい気がする。
でも、それでもどうしても惹かれる事もあるのだろうし、そして、それが決して幸福な事ではない場合もあるだろう。

ヘルメットをかぶったその美しい女性が、平凡に生きる道を選択しなかったのはなぜなのか。
組織からそっと抜ける事は、もしかしたら可能だったのかもしれないけれど、けれど、抜けずに今は50代という年齢を生きているのはなぜか。
鴻上さんは、彼女の数限りない人生の選択しを考えて書き連ねる。
主婦になった彼女、外国へ行った彼女、外国で結婚している彼女、もしくは外国で働いている彼女、かつての恋人とはどうなったのだろうか、今も一緒に幸せに暮らしているのだろうか、それとも彼はもういないのだろうか。彼女のそばに、そしてこの世に。
どうしても鴻上さんの想像は、彼女を本当はどこかで主婦の1人として、学生運動は青春の1ページと思って生きていてほしいと願っている。
それが、鴻上さんにとってのかつてはヘルメットをかぶっていた女性運動家の幸せ像なのだろうか。
わたしにはよく分からない。
それを負けだと思う人もいるだろう。

例えば、わたしが彼女だったとして、そして50代になった今も日本のどこかで潜伏し、戦いながら生きていかねばならないとしたら…?
どうしてそんな選択をしてしまったのか、ふと1人になった時に思うかもしれない。
そもそも1人になれる時間などあるのだろうか。
心に平穏の訪れる日がくるのだろうかと、夜中にそっと疲れた身体を横たえるかもしれない。
誰かと楽しく会話し笑う時はあるのだろうか。
家族との団欒のような…。

いつの間にか、わたしも鴻上さんと一緒になって妄想しはじめる。

決して接点の生じる事のない彼女に対して、鴻上さんは想像するだけしかない。
永遠の片想いだ。
答えの見つからない片想いだ。
決着を付ける方法はただ一つ。
考える事をやめ、あきらめることだ。

それでいいのか悪いのかはわたしには分からない。
あきらめれば幸せになれるかもしれない。
でも、あきらめたら自分の心を殺すことになるのかもしれない。

理路整然としているのに、もやもやとする小説だ。

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2007年8月18日 (土)

『烏金/西條奈加』(光文社)

友人の薦めで読んでみた。
人情算術時代劇とでも申しましょうか。

主人公の浅吉は、田舎から江戸へ出てきた若者。
強欲で薄情だと評判の金貸しのお吟婆のもとへうまくもぐり込む事に成功する。
かつては、算術学者の弟子として諸国を旅していた浅吉は、その算術を生かして、お吟や顧客をうまくまるめこみ、お吟の商売を繁盛させはじめた。
浅吉のもくろみは、お吟の財産が増えきったところで金を持ち逃げする事だった。

ところが、商売下手で借金のかさむ八百屋に、商売のコツを教えて感謝され、
吉原へ売られそうになった、貧しい娘お照を助けて、漬物商売の方法を教えているうちに惚れられ、
見得を重んじては、借金のかさんでしまう侍、義正殿に生活のコツを教えているうちに、何やら尊敬されてしまい…と、
憎まれ役のこそ泥でとんずらしようとしていた浅吉は、今や、町で知らぬ者のいない人気者。
最初は、浅吉を疑っていたお吟婆までが、実の孫のように信用し、お照と所帯を持つなら世話をするとまで言い始める。

…ところが、そんな幸せもつかの間…。

貧しさゆえに、多くの者が死に、子どもや娘は売られていった、浅吉の村。
その村を再興する事が浅吉の夢だった。
そして、吉原へ売られていった幼なじみのお妙をいつか助けたいと夢のように思ってもいた。
しかし、物事はそんなにうまくもいかない。
ただ、うまくもいかない中でも、浅吉や村の者たちが、知恵を出し合って生活をたてなおそうとしはじめる姿は、光が差す。

タイトルの「烏金」とは、浅吉の可愛がっている烏からきている。
人に嫌われ、群れ、不吉だといわれる黒い鳥だが、彼らには彼らの生き方がある。
浅吉の姿と烏の影が重なる。

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2007年8月12日 (日)

『聖灰の暗号 上・下/帚木蓬生』(新潮社)

次はどうなるの?次は?!と、ハラハラドキドキして読んでいった。
ちょっと睡眠不足になりました。

主人公の若き歴史学者、須貝は、フランスで研究資料を探すために滞在中に、図書館でとんでもない資料を発見してしまう。
その資料は、本来なら、分類されるはずもない地図の棚に分類されていたからだ。
その図書館の館長の見識の浅さに感謝すべきなのかどうなのか…。

その資料とは、ローマ教会に、いかにしてカタリ派の人々が迫害され処刑されていったのかを示す、一編の詩だった。
ローマ教会の威厳と権威を守るため、もしくは、現在「正規の」キリスト教だと信仰されているものが「正規」として存在するために、どれだけ多くの人の血が流されたのか、そのホロコーストの詳細が明らかになる予感が須貝にはした。
そして、その詩は、他にも第二、第三の手稿が隠されているという事をほのめかす暗号が組み込まれていた。

カタリ派というものを、わたしはよく知らないので、この本を読んだ後、少しだけ調べてみた。
勿論、この本を読めば、カタリ派の人々がどのようにキリスト教を信仰していたかは分かる。
偶像崇拝をしないので、教会やキリストの貼り付け像などは設置せず、拝まない。
神は自分たち一人一人の心の中にいるので、田畑で熱心に労働し、嘘をつかず、勤勉に暮らしなさいという教え。
また、男尊女卑をしないので、女性の修道士もいる。修道士という呼び名ではなく、「良き人」という呼び名だそうだ。また、堕胎を認めているし、洗礼の仕方も違うので、ことごとくローマ教会から敵視されていたようだ。
この信仰のあり方だと、日本人のわたしにも理解できる。
アニミズムじゃないのかなぁ、これって。
万物に神は宿るという考え方。そして、女性は女神だという考え方。
それが、「正規」の、キリスト教会からは異端視された時代があった。
というか、権力の座についた者たちが、異端視するように仕向けたのでしょう。

異端派として迫害され殺されていく様子は、、まるで魔女狩りさながら。
中には、カタリ派でない人も容赦なく殺されていたようだ。
もうこうなると、宗教的思想などではなく、殺人でしかない。
そして、その事実は権力者たちにとっては隠しておきたい事実だったのだろう。

しかし、教皇の行う、「異端尋問」の場で、書記官兼通訳をしていた修道士が、正規の書類には残すなと言われた尋問の内容を事細かく記し、「正規」のキリスト教信者の目にふれる事なく、何百年の間も隠しとおせるように工夫をこらした結果が、須貝の見つけた一遍の詩だったのだ。

須貝が仲間と協力し、その謎を解き明かしていき、第二第三の手稿を発見するストーリーは手に汗握る。
また、昔の話しだと思っていたが、現在の「教会」から、派遣されたであろう殺人者たちに、須貝や仲間たちが命を狙われる事になる。
その現代のミステリ仕立てと、過去の修道士の手稿という2層仕立てで、上下2巻にわたる読み応えのある作品だった。
強引な展開もある気がするが、作者の伝えたい熱い気持ちがそれをチャラにする。

『ダヴィンチコード』が話題になったので、読んでいて、その言いたい事は似ているな…と、思う人もいると思うが、わたしは『聖灰の暗号』の方が読み応えがあった。
英語圏で訳され発売されたら、どんな反応があるのだろうか。

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2007年8月 3日 (金)

『ちんぷんかん/畠中 恵』(新潮社)

大人気、しゃばけシリーズの第6弾。
もう、今さら何の説明もいらないような気がするので、サラリと。

お江戸にその名が響き渡るほど病弱な長崎屋の若だんなと、彼の大いなる味方たち、妖の佐助と仁吉。
そして、家鳴や屏風のぞきといった妖の者たちが繰り広げる、妖怪人情捕物帖。
妖怪や時代劇好きの人はぜひ。
わたしはどっちも好きなので、このシリーズは欠かせない。
表紙の絵も相変わらず可愛い。

今回は、いつものユーモアあふれる感じから、ちょっとだけ、死とは、別れとは…という事にふれてあり、しんみりとする巻ではありました。
若だんなもちょっぴり成長した様子。
第7弾が、今から楽しみ。

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2007年7月25日 (水)

『若ものたちが考える戦争責任~10代のあなたからのメッセージ~/西野留美子・編』(明石書店)

今から12年前に出版された本です。
戦後50年の今…と言っていたのは、もう10年以上も前になってしまったのです。
けれど、この本の内容は今も色あせないと思う。

西野さんの著書を読んだり、講演を聞いたりした小学生から大学生までの年齢の人たちが、自分の意見を手紙にしたり、対談という形で発表したものを、この本にまとめてあります。
おとなが読んでも充分に考えさせられる内容です。

今さら…知ってるし…ではなく、わたしも、読みながら、改めて子どもたちに目からウロコのような気持ちにさせられました。
戦争とは何か。
ただ、恐いから、人が死ぬからイヤだ。
人を殺したらダメだからダメ。
と言うのではなく、根源的な問題に子どもたちの思考が到達している事に舌を巻く。

もちろん、戦争反対意見ばかりではない。
おとなと同じように、子どもの中にも肯定論はあり、彼らの意見もこの本には収録されている。
「殺されたくなかったら殺すしかない。それができなかった人は弱い人だったのだから、死んでも仕方がなかった。わたしならできる」
と、感想文に書いている少年少女は、実際にいる。
これを、わたしたちおとなはどう受け止めるかが問題になってくるだろう。
わたし自身も戦争を知らない世代だ。
親ですら戦後生まれである。
けれど、知らないから分からないではなく、学び、想像力を働かせれば、その現場に立った時、果たしてこの少年少女たちと同じ言葉が言えるかといえば言えないのだ。
この少年少女たちは、本当に自分が戦場に立った時、もしくは、兵士としてではなく、一般庶人として戦火に放り込まれた時、こんなクールなセリフが言えるのかどうか想像力を働かせた事があるのだろうか。
この感想文を書いた少年少女たちも、10年たった今は社会人になっている事だろう。

また、在日差別の問題、慰安婦の問題にも、多くの少年少女たちが、驚きと恐怖と無知のこわさを綴っている中で、やはり、肯定派の子どももいる。
「慰安婦になりたくなかったのなら、自殺すればよかったのに。そうすれば、戦後何十年もその事で苦しまなかったし、日本も困らなかった」
というような事を、書いている少女もいる。
この意見がわたしには一番こたえた…。
慰安婦にされた少女たちと同じような年齢の少女の意見なのだ。
彼女は、自分がその立場に立った時、同じ事が自分にできるかどうか考えた事はなかったのだろうか。
これは、殺されたくなかったら、自殺すればいいと言っているような本末転倒なもの。
どんな境遇であっても、どんな目にあっても、希望を失わずに生きていたいと思う素朴な人々の人生を狂わせたものは何なのか、誰なのか、そういう事がストンと抜け落ちている。
ものすごく根源的な事を思考から外している事に愕然とした。
こう考えて生きている少女は、今を充実して生きていられているのだろうかと、心が痛む。

今はもう戦後なのだから関係ない、未来だけ見て生きましょうという意見もたくさんある。
未来に戦争がないという前提の考え方だなぁ、これはと、思う。

もの心ついた時には、ベトナム戦争の映像がテレビから流れていた記憶のあるわたしには、戦争は生まれた時からどこかで常にあると思っていた。そして、今だってそうだ。だから、その意見は、とても楽観的すぎる意見だなぁと、思う。関係ないと考えるのを止めてしまうのは楽かもしれないが、それは逃げでしかない。
確かにこの事を考える事はしんどい。無理に考えなさい!と、言われるのはもっとしんどいかもしれない。
でも、逃げていたらもっとしんどいはず。

わたしの友人にも、在日韓国人がいる。両親とも韓国人だし、もちろん、祖父母も韓国人であるが、日本名を名乗っている青年だ。身近にいるから、問題を考えるというわけでもないが、実際に彼の話しを聞いていれば考えざるをえない。ハンサムで、いつもアホな事ばっかり言ってはみんなを笑わせているような人気者なのだが、ある日、恋人の親から、
「大事な娘を在日韓国人と結婚させるわけにはいかない」
と、言われたとわたしたち友人に打ち明けた時の顔だけは忘れられない。
「俺だって、俺の両親からしたら大事な息子だろ」
と、つぶやいた言葉は忘れられない。
戦後生まれには戦争は本当に関係ないだろうか?
少なくとも、彼はその人生に大きく影響を受けて生きている。

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2007年7月19日 (木)

『さいでっか見聞録/富安陽子』(偕成社)

著者、初エッセイ!
でしょうか。

児童文学作家、富安陽子さんのエッセイ集です。
「月刊 クーヨン」に連載されていたもののようです。
わたしは富安陽子さんの本が好きで良く読むし、講演会が近場であると聞きに行きます。
まあ、けっこうファンなのだと思われます。
講演会での軽妙な語りと、とぼけた内容のお話しはとてもおもしろいです。
そして、そのとぼけつつも素直に楽しめるお話しが、このエッセイ集になったという感じ。
ちょっとたまに読み返してはそのユーモアにクスッと笑いたくなるような、そんな可愛い本です。

富安さんの童話をご存知ない方だって、児童文学作家という謎の生命体が、普段何を考え何をして生きているのかという参考書(?)に、なるのではないでしょうか。
児童文学作家だと言った時に、とある年配の男性から、
「へぇ。きみって、心のきれいな人なんだね」
と、言われた時の大憤慨から、幼い頃のユニークな家族たちとの生活、そして、富安さんの息子さんたちのお話し。
どれもこれも、クスッ、ふむふむの連続。

けれど、一編だけわたしはホロリと涙してしまった章がありました。
富安さんのお祖母さんのエピソード。
息子さんたちのうち、長男と次男を戦争で亡くされた事。
次男までも戦さに出たまま還らぬ人となった知らせを受けとった時、お祖母さんは、泣きもせず、黙って台所に行かれたそうです。どうしたのだろうかと娘たちがそっと覗くと、台所の床を静かに黙って掃除しておられたというお話し。
いつも陽気に歌をうたっていたお祖母さんは、いつの間にか歌をうたわない人になっていたという事。
戦争というものは、やはり、どう考えてもつらく悲しい事でしかないのです。
無力な人々の人生精一杯の幸せを踏みにじる事でしかないのです。

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2007年7月15日 (日)

『ひとり日和/青山七恵』(河出書房新社)

最近、視力が落ちたのか疲れ目なのか、パソコンの画面の字がすぐにぼやけます………。
今も画面がぼやけたままなのですが、日々、パソコンに向かわないといけないし、どうーしたもんだー。

でも、紙面の字を読むのには何の支障もないので、読書はすすむのでした。
この連休は台風がきていて、家にこもりっきりだったし、特にすすみました。
そんな中の一冊。
若手の方で、賞をバンバンとられていてベストセラー入りしているし、可愛らしい方だし、本好きさんならお名前はよくご存知の本でしょう。
あまのじゃくなので、なかなか手を出さないでいましたが、わたしがその文章センスを信用している方からおすすめされたので読んでみました。

最初はどうなることやら…と、思うほど何となくのんびりしすぎた文体で物足りない気がしていた。
今はこういう植物的な主人公が多いなぁ…と、思って。
そういう小説は嫌いじゃないのです。川上弘美さんとか、江国香織さんとか、植物的な人が出てくる植物的な小説。でも、それはどこかで危険な香りを隠しているから好きなのかもしれないとか心のどこかで思ってみたり。
危険といっても、バイオレンスやミステリではなくて。
そんなとっぴょうしもない部分に惹かれるのではなく、でも、何かその穏かな文体の中に感じる危険な香り。

そういうものが足りないなぁ…なんて思って読んでいたら、主人公が2人目の彼氏と別れるあたりから、雲行きが荒々しくなってきた。
そう思って読み続けていくうちに、そういえば、このヒロインは最初から荒々しい女だったのだと、はたと気付いた。

小説の書き出しからして、荒々しいではないか。
最初っから、何か喧嘩ごしだったじゃないか。
母親に対しても、老婆に対しても。
そして、女ってけっこうそういうもんだよねぇと、思うのでした。
でも、うっかりしていると見過ごす密やかな荒々しさ。
ああこわい。

桜の花と澄み切った空色と古い民家の、一見穏かそうな表紙。
ローカル線のホームのすぐそばにある家に住む老婆とその遠戚の娘と猫2匹の暮らし。
何も起こらないと思わせられるような平凡な生活。
でも、娘の心の中は常に荒々しい。
読み終わって、著者の写真を見る。
新聞や雑誌などで拝見する、可愛らしい少女のような顔。
でも、こんな荒々しい女の内面を描く人なのだ。
ああ、荒々しい女の1人なのだ、青山七恵さんという人も。

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2007年7月14日 (土)

『幕末あどれさん/松井今朝子』(PHP研究所)

日本に黒船がやってきて、人々の価値観が右往左往していく幕末。
江戸の町に住む、2人の若者を主人公にした時代小説。
淡々とした筆致で丁寧に情景や心情をえがいていて、とても読み応えがありおもしろかった。

松井今朝子さんという方の小説を読んだのは初めて。
お芝居好きなわたしにとっては、この方のお名前は演劇評論家というイメージが強かった。
でも、歌舞伎の上演台本や演出等も手がけておられたのですね。

この小説は、その松井今朝子さんの得意な分野をあますことなく書ききられたものかもしれません。
主人公の若者の1人、宗八郎は、武家に生まれたものの、次男坊のため、家督を継ぐ役目もなく、嫂に横恋慕しそうになる我が身を恐れて家を飛び出し、やがては歌舞伎の戯作者に弟子入りする。
その芝居小屋での生活の中には、実在の戯作者や歌舞伎役者が次々と登場し、宗八郎と関わってくるので、お芝居好きにはたまらないはず。
沢村田之助のエピソードも出てきて嬉しい。
もう1人の若者、源之助も、武家の次男坊。しかし、こちらは、家督を継ぐはずの兄が母親に甘やかされ芝居小屋や吉原に出入りしては家の金を持ち出す遊び人のため、苦労が耐えない日々を送っている。
実は、この源之助の兄が宗八郎を戯作者・河竹新七(後の黙阿弥)とひきあわす事にもなる。

幕末の日本で、新撰組や坂本龍馬という名だたる者として生きられなくても、日本中には、日本の行く末を憂い、自分に何ができるのかと本気で考え必死に生きていた若者たち(あどれさん)がたくさんいたのだろうと思わせてくれる時代小説だ。

物語は、黒船の汽笛がボーッと鳴り、さながら芝居の幕開けを感じさせるような演出で始まり、ラストもまるでチョーンと拍子木が打たれて幕が降りるように終わる。
それが「一件落着」なのかどうかは…。
松井今朝子さんの書かれる時代小説、もっと読みたいと思わせてくれた。

宗八郎と源之助は、お互いが江戸の町に住んでいる事を知らない。
読者にだけは、やがて彼らが切っても切れぬ、決して手放しでは喜べないような縁で結ばれ始めていく事を知る。
だが、2人は最後までそれを知らない。
運命の歯車が狂うのか、それとも幕末という独特の時代が、彼らをそうさせていったのか。
知った方が良かったのか、知らない方が良かったのか、それも分からない。
個人の努力ではどうにもならないほどに、時代の波にのまれていく者たちの姿が切ない。

太平の世であれば、武家の次男坊として、どこかへ婿養子に行くなり何なりして、平和に暮らせたかもしれない宗八郎と源之助。
彼らの運命もまた時代の波にのみ込まれていく。
美しい許婚と祝言を挙げる事を楽しみにしていた源之助にふりかかる不運。
もしも、戊辰戦争が起こっていなければ、もしも大政奉還がなかったら、もしも…もしも…。
けれど、どんなに時代がうねろうとも、懸命に生きていくしかないのもまた事実。
宗八郎と源之助という対照的な2人が、その精一杯で努力し生きようとする姿がとにかく切ない。
そして、大きな時代に最も翻弄されていくのは弱い女たちなのだという現実もつらい。
それこそ、太平の世なら、武家の娘として何不自由なく暮らしていたであろう源之助の許婚、千鶴。
宗八郎のなじみの女郎の花紫。
主人公たちの陰で、彼女たちの運命も翻弄されていく。
賊軍となっても義父のかたきとばかりに、戦へ行こうとする源之助に、千鶴はつぶやく。
「男の方は勝手です」
と。
けれど、源之助はその言葉を聞いた時には、おそらく、「女が戦に口を出すな」くらいにしか思っていなかったであろう。
その言葉の意味を本当に知る事になる時には、もう2人には遅いのだが。
流れの速い時代の波の中で、彼らはやがて女郎と客という立場で出会う事になる。

読みながら、時代の渦中にいる者には、今、自分がどういう立場にいてどうすべきかという事が意外と分かっていないものだという事を何度も感じた。
今の時代に生きるわたしたちもそうなのかもしれない。
後の世の人々から見れば、
「なぜ、そんな愚かな事をしでかしたのだ」
と、思われるのかもしれない。
少しでも、そう思われないように生きていきたいけれども。

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2007年7月 9日 (月)

『トンちゃん/中村葉子』(ポプラ社)

著者のデビュー作だそうです。
今までもエッセイや詩を書いておられた方のようですが、小説は初めてだそうです。

トンちゃんという少女が主人公で、彼女は自分の家族も全員「トンちゃん」と、呼んでいる。
それはなぜかというと、彼女は、自分の家族や近所の人たちがみんな役者で、自分が夜寝たら暗幕がおりて、役者さんたちも、父とか母とか祖父母とか八百屋さんなどの役を休憩してそれぞれの場所に帰るのだと信じていたから。
だから、誰をどんな呼び名で呼ぼうとも関係なかった。
今日、母役をしていた人は、明日は本屋のおばちゃん役かもしれない。
もしかしたら、今、母だと思って抱きついた人は、本当は本屋のおばちゃんかもしれない。
トンちゃんは、そういう事をずっと考えて考えて、それでおとなになってしまった人。

トンちゃんというクマのぬいぐるみをいつも大事に持ち歩いていたけれど、それも、ある日、ぽいっと捨てる。
普通の小説の展開ならば、そのぬいぐるみ離れをできた時点で、主人公は成長を遂げて、少しだけ世界を進めるだろうに、トンちゃんは進まない。
ぬいぐるみを手放した後は、たけしという男に恋をする。
たけしにも、あの暗幕の話しや役者家族の話しをする。
ぬいぐるみのトンちゃんに話していたように、彼女の話しはまるで独り言のようなたけしに向かっているようで向かっていない。
たけしが何を考えているのかも、読者にはよく分からない。
たけしは本当は誰?人間?それともぬいぐるみ?

トンちゃんは、子どもの頃から、池で人の心を見抜く不思議な女の人とよく出会っていた。
おとなになっても、その女の人には出会った。
トンちゃんは、その女の人がいつ出現するのか知っている。
だって、その女の人はおそらくはトンちゃんだから。

トンちゃんの世界には、トンちゃんしかいない。
お母さんもお父さんも八百屋さんも本屋さんもトンちゃんもたけしも女の人も全部トンちゃん。

すごい世界だ。
でも、すごく切なく孤独な世界だ。

だから、ラストで、トンちゃんが電車に乗られて良かった、と、思った

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2007年7月 5日 (木)

『ああ娘/西原理恵子+父さん母さんズ』(毎日新聞社)

『ああ息子』で、腹がよじれるほど大爆笑したので、こちらも読んでみた。

あんまり、かな。
やっぱり、男子のわけのわからない迫力には負けるなぁ~。
娘編は、女の子という生き物が、いかに、子どもの頃から小悪魔かという事が分かるくらいですな。
そんなもん、30ン年も女として生きてきていれば周知の事実なので、別におもしろくはないですな。
あ、言っときますが、わたしは小悪魔じゃありません。
そんなに賢く世渡り上手に生きてこれたタイプの女子ではありません。
そんな風にできてたら、もっとモテモテです。爆笑
ここに出てくる幼女たちのように、小さい頃から笑顔と涙とくさいセリフを瞬時に使い分けて生き抜いてきたタイプではありませんので、風当たりがきつく、それゆえに余計に強くならざるをえなかったタイプの損な女子部類です。

あ、書いてて何か悲しくなってきた。笑

クラスメートのそういう女の子たちを横目で見て、
「何であの涙が嘘泣きって気付かないんだよ、教員…」
と、心の中で思っていた別の意味で嫌な子ですね。笑

先日、親友男子の彼女が、わたしの大好きなYちゃんだと判明し、
「あんた、意外に女を見る目あるじゃん!」
と、大褒めしたんですが、親友男子曰く、
「でも、結婚するにはもうちょっと彼女の性格とか見極めないと、って、思っとる」
って言うから、
「やっぱ、おめぇは分かってねぇ!」
と、説教でした。

10代の頃からモテモテくんで生きてきやがったその親友男子は、周囲にきらびやかで露出度高しなファッションのお化粧バッチリな女子が集まってきているけれど、でも、その中からYちゃんのような地道で真面目な素朴女子を選んだってところに感心しました。

でも、説教。笑

「言っとくけど、Yちゃんは超良い子だよ!あんなに良い子、あの子と別れたら後はいないと思えよ!あんたにはもったいないくらいの超良い子だよ!見極めるも何も、わたしがあんたなら速攻プロポーズするで!」
と、大説教でした。
うるさい友人ですよね、ほんと、わたしって。笑
でもさー、何で男子って何ていうのか、ああいうYちゃんのようなめったやたらに愛想を振りまくようなタイプじゃなくて、地道に真面目に生きてて、心がすごく綺麗な女の子の良さを理解できないんだろうかなぁ…って、思うのでした。
一緒にご飯食べに行って、親友男子が彼氏なわけだし、食事代を出そうとすると、
「おごってもらってばっかりなんて良くない」
と言って、自分でさっさとお金払うし、タクシーで家まで送ってあげると言われても、
「だいじょうぶ。自分で払える」
と言う。
可愛くないでしょ!?
分かるのよ、これが可愛くないっていう男心も!
でも、おごられて当然と思ってるような人よりは断然人として信用できる、と、同性としては思う。
しかも、彼女はわたしと同じ契約職員さんだから、お給料が毎月大ピンチなんだって事くらい分かる。
それでも、男に払わせるのをよしとはしないのよ。

だいじょうぶじゃない時も、絶対にだいじょうぶと言ってしまう損な人なんだよ。
あんたが必要以上にモテモテ男子なのも、絶対にYちゃんにはしんどいはずなんだよ!
分かってんのかよそれを、ノリオ(仮名)!!!

Yちゃんは、彼の周囲にいるようなおしゃれで美人な子たちに比べたら地味かもしれないけれど、同性ならば、一目見た瞬間にすごい良い奴だって事は見抜ける。
嘘泣きなんか絶対にしないし、むしろ、本当に泣く時だって彼氏の前では泣かないで、我慢して家まで帰ってトイレで泣くような子だし。嘘つこうと思ったら絶対に顔が赤くなるような素直な子だし。
小悪魔とは対極の位置にいるけれど、だから人として信用できる人だなぁって、思うんだけれど。
まぁ、人としての信用と恋愛感情は別物だもんね。
どんなに悪い奴で、振り回されて人生台無しにされたとしても、好きになる人はいるんだろうしね。

Yちゃんがどう考えても良い人だっていうのが分かってるから、その親友男子も付き合ってるんだろうけれどさ、肝心なところは分かってない気がする。こればっかりは、男女の差で仕方ないのかもしれないけれど
あー、歯がゆい!
その親友男子は、わたしの男友だちの中では、かなり真面目に真剣に仲良い男子だ。
遊び仲間とかいうよりは、仕事とか人生の真面目な話しもちゃんとしあえて、お互いを尊敬しあっているし、お互いがお互いに絶対に嫌われたくないから、お互いが軽蔑するような事は絶対にしないぞ!と、思いあっているくらいすごく大好きな相手である。
でも、恋愛感情は絶対に生まれない仲なんである。
そういう人に出会えた事は、すごく嬉しいので、2人で酒飲んでると、あまりにも楽しくて肩組んで飲んでしまう。すごい青春くさい。笑
小悪魔女子には、この感覚は理解してもらえないかもしれないけれど、そういう異性も存在するのです。
逆に言うと、わたしは、良い悪いは別にして、尊敬を抱いた相手には恋愛感情は湧かない気がする。
だって、尊敬しちゃったら、可愛いと思えないもん。笑
普段はバカな事ばっかり言ったりしたりしているのに、仕事は絶対にきっちりするし、人に対してもとても優しい。これっくらい心の広い人になりたいもんだと、彼を見ていてわたしは思う。
でも、優しいからモテモテくんだし。

全く本の感想になってねぇじゃん。
でも、というわけで、わたしは、Yちゃん応援団団長として、日夜がんばってノリオ(仮名)を洗脳していきます。笑

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2007年6月30日 (土)

『謎のホームページ サラリーマンNEO 公式レポート/NHK番組制作班・編集』(角川書店)

火曜日の夜に放送している、NHK初のコント番組の本です。

主演の生瀬勝久さんをはじめとする役者さんたちのインタビューや、NHKでここまでのシュールな番組を立ち上げるための企画からの苦労や試行錯誤がスタッフ視点で書かれていて、番組のファンならずとも、ちょっとしたプロジェクトXな本ですね。

マニアックな番組ですが、見はじめるとやめられないゆるさとシュールさ、間に挟む、「世界の社食から」などのドキュメンタリータッチのコーナーや、カルロス・ゴーン氏への一言インタビューコーナーは、けっこう感心して、「ほほぅ」と、うなずいてしまいます。
でも、何よりもわたしが大好きなコーナーは、「テレビサラリーマン体操」。
ダンス集団コンドルズが担当しているこのコーナーは、NHKの実際の番組、「テレビ体操」のパロディー。
リーダーの近藤さんが、あやしすぎる髪型で変に爽やかに司会をし、後ろでスーツ姿の男3人が、「出世に役立つ運動」や、「会議で役立つ体操」などの、うさんくささ満載な体操を、無駄に笑顔で演じきっているので大好き。
ダンスをしつつ、でも、コントもしちゃうというコンドルズのライブさながらなコーナー。
世間ではビリーのキャンプに入隊する人が続出のようですが、わたしは、このサラリーマン体操に入社したいですね。

そんなわけで、火曜日の夜11時には、チャンネルをNHKに合せてみてはどうでしょうか。
こんな番組を作ってくれるなら、視聴料払います。

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2007年6月27日 (水)

『配達あかずきん 威風堂書店事件メモ /大崎 梢』(東京創元社)

去年、けっこう売れていた本の一つではないでしょうか?
あまのじゃくなわたしは、今年になってから、読書の好みではけっこう似ている人に薦められたのでようやく読む気になりました。

結論。

おもしろい!笑

新人さんの作品で、本屋を舞台に事件を解決していくミステリ物。
そんな殺人とか起きるような大事件ではないのだけれど、小さな事件の中にも、人間の悲喜こもごもが詰まっている切ない事件やユニークな事件があり、さながら、現代版江戸捕物帖のような感じ。
東京はかつては江戸と呼ばれていたのだなぁ…なんて、ふと思い出すような素朴な捕物帖ですね。
畠中恵さんの若だんなシリーズなんかがお好きな人は、けっこう好きな作風なんじゃないでしょうか。

若い書店員の女性と、アルバイトの女の子が、ワトソンとホームズの関係というのもちょっとユニーク。

少なからず本に携わる仕事をしているので、本屋さんの苦労も分かる分かる!と、思いながら読みました。
特に、お客さんの対応のところ、「図書館も同じだ!」と、思う事が多々。

「書名も作者も分からない本なんですが、探して下さい」
とかね…。
まさに、本探しは日々ミステリー。
探偵気分なのだよワトソンくん。

「新聞で紹介されていた本なんですけど、ありますか?」
とかね。
切り抜き持って来て!せめて、タイトルだけでもメモして来て!と、思う事はしょっちゅう。

「タレントの○○さんが紹介していた、何かヒロインが悲しい感じの本ありますか?」
とかね。
何かヒロインが悲しい感じの本なんて、何万冊ってあると思いますがお客様…という言葉をグッとこらえて、他に何かヒントはないかと質問をするのは、けっこう根気が必要です。

みなさん、本屋及び図書館で本を探して欲しい時には、ぜひぜひぜひとも、「書名・作者名」だけはメモして来て下さいませ!!!
切実な願い!!!

日本中で、毎日膨大な数の本が出版されているのでありますよ。
それを、
「何かヒロインが悲しい感じの本」
と、言われましてもなぁ…。
こっちが悲しい気持ちになりますねぇ…。

という共感をふつふつと沸きあがらせながら読み進めていくうちに、お客さまの抱えているトラブルも何か解決しちゃってるという、ユニークなミステリ小説なのでした。
ほんわかした読後感でいいです。

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2007年6月19日 (火)

『読む力は生きる力/脇 明子』(岩波書店)

ページをめくるごとに、「そうだ、そうだ、その通りだ!」と、共感する事ばかり。
長年児童文学にたずさわってこられ、大学では学生たちに、児童文学の講義をされている実績からもあるとは思うけれど、何よりも、脇明子さんという人の、児童文学への深い愛情がひしひしと伝わってくる本。

昨今の、子どもが本を読まなくなった。読書力が落ちた。読解力が落ちた…等等のへの考察と、おとなとして、今できる事は何なのかを考えさせられます。
読みながら脳がふつふつと熱くなるような気がします。

子どもたちにとって、本とは一体なのなのか。
必要なのか不必要なのか。
不必要だとしたら、それはどういう場合なのか。
必要だとしたら、それはどういう意味で必要なのか。

ここでうだうだ書くよりは、この本を読んでください。
全ての子どもに関わりあう事のあるおとなの方へ!

親という立場、教員という立場、保育者という立場、塾の先生でもいい、近所のおじさんおばさんとしてでもいい。
家庭文庫の人でもいいし、読みきかせボランティアの人でもいい。
司書はもちろんの事。
作家という書き手という立場の人でもいい。
でも、むしろ、この本は、作る側ではなく、できあがった本を、どうやって子どもたちの手に届けるのかが書いてある。
大量に無造作に手渡せばいいというのなら苦労はない。
そうではないからこそ、脇さんはこの本を一冊熱い思いで書き上げられたのだろうから。

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2007年6月 6日 (水)

『ああ息子/西原理恵子+母さんズ』(毎日新聞社)

注意!
読むと、笑い死にしそうになります。
あまりにも笑いすぎて、腹痛になって泣きましたよ、わたしは。

漫画家の西原さんと、読者のお母様方の息子さんたちのトホホなエピソードを集めた本です。
子どもって、おそろしい…そしてすごい生きものですね、改めて!

もちろん、本になるくらいだから選りすぐりのエピソードを集めているんでしょうけれども、もう、本当にすごいとしか言いようのない激しいぼっちゃまたちの面々。
おとなになるまでに、こんなに幾多の謎の言動をしでかすなんて、育児書は役に立ちませんね、きっと。笑
友人たちの今はまだ小さくて可愛らしいぼっちゃまたちが、そのうち歩くようになりしゃべるようになった時、どんなモンスターに変身するのか今からドキドキです。

わたしは妹との2人姉妹なので、男のきょうだいがいないから、この激しさは未知の世界。
あぁ、わくわく。
わたしが将来的に男の子を産むことがあれば、この本を参考(?)にしようと思います。

というか、世の中の男性を見る目がガラリと変わりますね。
どんなにスカした男でも、子どもの時はこんな宇宙人かと思うと、可愛いもんだぜ。笑

『ああ娘』もあるそうなので、こちらも読みたいよ。
こちらは父さんズが投稿しているそうだ。
父親から見て、世の中の娘たちはどんなトホホな生き物なのか知りたいもんです。

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2007年5月31日 (木)

『宮藤官九郎の小部屋/著者・宮藤官九郎と母』(角川書店)

クドカンこと宮藤官九郎さんが所属する劇団、大人計画の公式ホームページには、クドカンがお悩み相談コーナーを設けていらっしゃる。
ファンからのくだらない悩みからへヴィすぎる悩みに、多分、けっこう真剣に回答しているコーナー。
何がおもしろいって、クドカンの回答もおもしろいけれど、クドカンのお母様の飄々とした回答にウケるんです。
素敵な女性です。
年をとって飄々とできるようになったのか、昔から天然だったのか、それは息子であるクドカンしか分からない事なのでしょうが、いい味出してます。
きっと、みんなの心のアイドルです。
そんなわけで、このコーナーは、けっこう好評だったらしく、単行本が出る事になったようです。

数ヶ月前、角川書店から、もしもあなたのお悩みが単行本に掲載されるとしたら承諾していただけますか?という承認書がメールで送られてきた。
別に怪しいメールでもないし、ちゃんと本当に角川書店からのもののようなので、記入欄に記入して返信した。
別に本に載るわけないし、そもそも悩み相談を送ったのかどうかすら覚えていなかったし。
何かすごい律儀な編集者が送ってくださったのかと思って返信しておいたのでした。

で、数日前、角川書店からこの本が郵送されてきました。
掲載の承諾をいただいたかた全てに本をお送りしていますという文書付きで。
何てリッチな会社なんだろうと思って、ありがたくクドカンの新刊を拝読いたしました。

まぁ、世の中にはなんとたくさんの悩みがある事なんでしょう。
そして、人々は人に悩みを話したくてうずうずしているのだなぁと思って読んでいると、ふと、心臓が痛くなったページがあった。
「何、この人。すごい、わたしと文章の書き方が似てる…気持ち悪ッ」
と、思って何度も読み返しました。

もう、何か伏線張る意味もないですけど、わたしの悩み掲載されてる…。
日付を見ると、5年前にメールを送ったものと思われます。
読み返していくうちに、だんだんと思い出してきました。
ってゆうか、悩みか、これ?
単なるネタだろ、5年前のわたしよぉ。

5年前とは周囲の人間関係がだいぶ変化しているので、当時の悩みは自然消滅しておりますが、わたしの友人知人がこの本を読んだら、どれがわたしの悩み相談か分かると思います。笑
ってなわけで、おもしろいですよ、この本。笑

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2007年5月28日 (月)

『おばあちゃんが、ぼけた。/村瀬孝生』(理論社)

特別養護老人ホームに勤める村瀬さんの著書。
10代の読者向けに分かりやすく、痴呆症とは何かを説いておられます。
4コママンガを間に挟み、軽快なテンポで語られる様子は、あまりへヴィーではないけれど、でも、やはり、痴呆症とは本人も周囲もかなり大変なものだという事が分かる。

ただ、わたしがこの本を読んで感じた事は、痴呆症を大変だと定義つけるのは、わたしたちの「世間体」とか、「社会性」なのであって、その症状は決して「ダメ」な事ではなく、マイナスではないという事。
「老人」と決め付けるのではなく、一人の「人間」の言動として受け止め、介護者にとって楽な方法をとるのではなく、その本人が何を希望しているのか、どうしようとしているのかを感じとる努力が大切なのではという事。
要するに、「痴呆症」だからと、ひとまとめにしてしまうのではなく、AさんBさんCさんの、それぞれの症状に合わせて、その人の意思を尊重し接する事が大切という事。
とはいえ、それは、ものすごく大変な事なのも確かだ…。

でも、わたしが老人になり、痴呆症になった時、やはり、わたしを一人の人として認め尊重して接してほしいと思うのは当然だと思う。

本の中には、村瀬さんの体験してきた、いろいろなケースやエピソードが載っている。
若い男性職員が、排泄を自力でできないおばあさんに介助をするつもりで、トイレに誘導し、彼女のパンツを下ろした時、そのおばあさんは大声で助けを呼んだという。
「誰か助けて下さい!わたしは今、犯されようとしていますー!」
と。
笑い事じゃないのだ。
その若い男性職員にとっては、彼女は施設に預けられた痴呆症の老婆であって、排泄の介助をするのは仕事であって、当たり前の事。
でも、彼女にとっては、見知らぬ若い男性にトイレに連れて行かれてパンツを下ろされるというおそろしい体験をしてしまう事になるのだ。
痴呆症の老婆である前に、その人は一人の人間であるという事を如実に表したエピソードのように感じた。

大勢の人を介護しなければならない老人ホームの職員の忙しさも分かるが、彼女にとって、それは何の理由にもならない。お年寄りだから恥ずかしくないと思うのは、こっちの勝手な言い分でしかないのだ。

だからこそ、村瀬さんのようなプロの力を借りる場合も必要だろうし、それを本人が拒否するなら、他にはどうすればいいのか一緒に考える必要もあるだろう。でも、きっと、この「一緒に」が抜け落ちてしまって、ついつい家族は、忙しいから疲れるから危ないから…と、何もさせなかったりしてしまうのかもしれない。

わたしだって、親が痴呆症になった時、果たしてどれだけ冷静に接する事ができるのか自信はない。
でも、相手を一人の人間として尊重する事を忘れてはいけないなぁ…。

今、わたしの祖母が痴呆症である。
一緒には住んでいないので数週間に一度会うくらいだ。
会えば、同じ話しを延々と繰り返す。
わたしの知らない人の話しを、さも共通の知人のように話す。
昼食を食べていないけれど、人には言わないようにと言われる。
お嫁さんに悪気はないのだから、昼食を食べさせない嫁だと思われたらかわいそうだから近所には言うな、と。
しかし、わたしと祖母とは、おばさんが用意してくれた昼食を一緒に食べたのである。
そうかと思えば、息子が帰って来ないと何度も何度も言うので、叔父の携帯電話に電話をかける。
叔父の声を聞いて、祖母は少しホッとするようだが、また数分もすれば、息子が帰って来ないと言い始める。
叔父が仕事に行っている事をすぐに忘れてしまうのだろう。

祖母がそれらを気にして何度も言うという事は、それらに執着心があるという事なのかもしれない。
わたしは、たまに会って話しを聞く事しかできないけれど、痴呆症だから…と、あきらめる接し方ではなく、一緒に話しをしていて、楽しいと思えるような会話をしなきゃなぁと、反省した。

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2007年5月17日 (木)

『井戸の底に落ちた星/小池昌代』(みすず書房)

書評集である。

でも、書評と一言で言ってしまうのがもったいないような濃厚な味わいのある一冊。
他の作家の小説の書評を書いているのに、まるで小池昌代の新作の小説を読んでいるような不思議な味わいがある。
地味な筆致なのに、どこか色気を感じる。

この中で紹介されている本は、わたしは、飯島耕一の『小説平賀源内』と、ジュンパ・ラリヒの『その名にちなんで』、河野多恵子の、『小説の秘密をめぐる十二章』の三冊しか読んでいない。
他の数十冊は、お恥ずかしい事に読んでいない。
かなりベストセラーになった本も入っているのだが、あまのじゃくなわたし、読んでいないのである。

読んだ事のある本を、書評で読む時、たいていは、「ああ、そうそう。そうだった」と、内容を思い出して共感したり、それはちょっと違うなと思ったりするのだが、小池昌代さんの書評は、読みながら、全く別の本の事を書かれているような不思議な気持ちになる。
それは、「違う」と、思う批判的な気持ちではなく、「え、そんな読み方があったのか…」という、心地よい驚き。
そして、読んでいない本の書評を読む時、ただ単に「そんな本なのかぁ、へぇ」と、思うのではなく、未知の本の息づかいが聞こえてくるような、しっとりしとした肌触りがするのだ。
その湿気を感じると、その本を、ぜひ読みたい!その感触をまるまる一冊ごと感じ取りたい!と、思うのだ。

この本は、読みながら、周囲の雑音が一切聞こえなくなった本だった。
どんなに周囲で子どもたちが騒いでいようとも、大きな音でテレビがついていても、わたしの耳には何も入ってこなかった。ただ、大げさでも何でもなく、宇宙の中に、ぷかーんと浮いて、ひたすら読書をむさぼる感じだった。
そういう読書時間は滅多にない。
だから、本を閉じた瞬間に、一気に耳の中に周囲の雑音が押し寄せると、眩暈がしそうになる。
それでも、何ごともなかったかのような顔をして、周囲を見回す。
この中の誰も、わたしが、今、ここにいたのにここにはいなかったなどと思いもしないだろうなぁ、なんて思う。

よく、読書をするのは異世界体験なので楽しいと言う人もいるし、かつてわたしもそう思っていた。
一度も体験した事のない世界を、活字を読む事で体験できる、と。
でも、もしかしたら違うのではないだろうか。
わたしの中にある、本当は「ある記憶」を、読書は掘り起こしてくれているのではないだろうか。
そんな気がふとした。
本の中で、ものすごい大スペクタクルが繰り広げられていたとして、それをわたしがかつて体験した事は、決してないのだけれど、でも、わたしの体内(胎内)には、その作家の言わんとしている事はかつてより存在していて、わたしは本を読む事で、その事実にふと気付くという感じ。

小池昌代の書評は、そんな事を考えさせてくれた。
「自分を読み直す」という感じなのかなぁ。

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2007年5月 4日 (金)

『オンナらしさ入門(笑)/小倉千加子』(理論社)

心理学者の小倉千加子さんが、10代に向けて書かれている哲学書…というと、小難しそうですが、想定はピンクと淡いブルーで、ポップでキュートなイラスト。まるでとっても女の子らしい(笑)表紙。
表紙からしてすでに、タイトルにわざわざ付けてある「カッコワライ」を体現しています。

これはジェンダー論の本。

ジェンダーのお話しを、分かりやすくズバリと解説してあります。

女という存在が、オギャーとこの世に産まれた瞬間から、いかにして作られ、いかにして育て上げられたのかをバッサリバッサリと書いておられるのです。

何かねー、これは、何というかねー、わたしは三十路を過ぎた今でも考えさせられる書です。
女として産まれた限りは永遠の課題なのかもしれません。
思い当たる事がバンバン書いてあるのです。
ちょっとへこむかも。笑

いわゆる、30歳を過ぎても結婚していない子どもも産んでいない女性が、なぜそういう存在としてこの世に存在しているのかという事もジェンダー論とは深く関係しているのですもんね。
思えば、そうだ。

とりあえず、マザーグースの歌にもあるように。

おとこのこって なんでできてる?
おとこのこって なんでできてる?
かえるに かたつむりに こいぬのしっぽ
そんなもんんでできてるよ

おんなのこって なんでできてる?
おんなのこって なんでできてる?
おさとうと スパイスと
すてきななにもかも
そんなもんでできてるよ

…は、深い!深いよ!!!と、思うのでした。
子どもの頃、この歌を本で読んだ時、
「えー。そうかなぁ。でも、わたしはカエルも好きだしなぁ」
って、思った覚えのあるわたしには、この本はけっこうグサッとくるなぁ。

女の子はお砂糖のように甘くて優しくて可愛くなければ、王子様には愛されないの?
じゃぁ、可愛くない女の子はどうすれば生きていけるの?

王子様というのは、男性ではなくて、要するに男社会なんだろうなぁ。
社会人になって、まずわたしが衝撃を受けた事は、初めて働いた職場の上司に、
「女子社員は、別に仕事がそんなにできる必要はない。毎日、きれいにお化粧をして、可愛い服装をして来てくれればいい。職場の花があればこっちも仕事に精が出る」
と、言われた事を思い出しましたよ。

皆さん、「そんなバカな!?」と、思われるかもしれませんが、本当です。お酒の席でも何でもなく、(まぁ、酒を飲んだからといって言っていい台詞でもありませんが)昼間の職場で他の社員もデスクに張り付いて仕事をしている時に!です。
社会人一年生のわたしは、呆然とし、「こんな会社には長くいてはいけない!」と、思ったのでした。
こんな場所にいて、お世辞にも顔形のよろしくない人はどうやって自分のアイデンティティを保持していけばいいのかっていうと、もう残る道は1つしかないです。
「気配りのできる優しい女子」
に、なるしかないのです。
容姿では存在価値を認められないのなら、コマメに皆様(主に男性)に、お茶を入れたり、お家の庭に咲いたお花を持ってきて飾ったり、疲れている人がいれば、「だいじょうぶですか?」なんてお声をおかけしてみたりして、「性格美人アピール」するしかないじゃん!
「あの子は、そんなに美人じゃないけれど、優しいしいい子だよね」
という評価を獲得して存在価値を認めてもらうしかないじゃん!

決して、バリバリ仕事をして、容姿はそんなによくはないが、「仕事のできる女」として尊敬されるという選択肢ではなく。

皆さん!嘘でしょ!?と、思うかもしれませんが、そういう職場は絶対数として多いと思うのです。
また、その逆の場合もあって、わたしはその職場には2年間しかいませんでしたが、同僚のモデルのように美しい女性は、男性上司に、面と向かって、
「あんたはいいよね、座って笑っているだけで給料がもらえるんだから。○○さんは、ブスだから、一生懸命仕事しないといけないんだよ」
と、言われて大憤慨していました。
わたしから見て、別に、その美人の同僚と、○○さんと名指しをされた容姿のよろしくないと判断された女性社員の仕事能力は差はないと思ったのですが、美人というだけで怠けていると受けとる上司もいるのだなぁ…と、つくづく、女というものは、まずは「外見から見られる存在」なのだと思ったのでした。

…書き出すとキリがない話題なので、このへんで…。
でも、今の時代、10代向けにこんな本が出版されるというのはなかなかいい事だなぁと、思うのでした。
別に10代の女の子でなくても男の子も読んだ方がいいと思うし、おとなも読んだ方がいいと思うのでした。

あぁ…それにしてもジェンダー論を考え出すと本当に何といおうか、自分の存在理由からして考え込みますわい。

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2007年4月21日 (土)

『駆け込み、セーフ?/酒井順子』(講談社)

一時期ブームとなった「負け犬」というお言葉はこのお方から。
名著、『負け犬の遠吠え』は記憶に新しい事と思います。
負け犬という言葉だけが独り歩きした感はありますが、さて、流行りモノには手を出さないあまのじゃくなわたしは酒井さんのご著書を読んだのがこれが初めてです。
「やっぱ、三十路を過ぎたら読んどかないと。40代までにはゴールできないわよ!」
と、3才年上の職場の先輩に言われて読んでみました。
余計なお世話とは思いません。
先輩も独身なんだもん、同じ立場なんだもん。w

あ。
おもしろいのね、酒井順子さんて。
何だか同年代の女ともだちと居酒屋で飲みながら、わっはっはっと笑っておしゃべりをしている感覚に非常に近い!
酒井さんご自身は、わたしよりはもうちょっと年上の女性なのですが、このエッセイはけっこう共感できるところがあるのでした。
…というか、三十路過ぎて独身の女性は、多分、たいがい共感すると思うな。
何というのか、おっしゃっている事は、至って普通なのである。
毒を含みたいけれど、それを最小限に抑えた筆致はクラスのお嬢さんな感じすらする。
日々の暮らしの様子も、わたしなんかと大して変わらない気がする。
いや、もちろん、あちらはベストセラー作家さんでセレブな生活をなさっているのかもしれませんが、金額のかけかたは違っても、何となく精神的なストレス解消方とか、世間に思う事とか、男性に対して思う事が非常に共感できる。
共感する人が多いからこそのベストセラー作家なんでしょう。
ふと、一人で旅に出たり、ふと一人でカフェに行ったり、飲み屋へ行ったり。
お一人様上手なところとか。
お一人様上手になりたい女性が多いらしいですが、わたしに言わせれば、ずっと一人でいれば自然とそんなもんは身につく!という事です。
一人で飲みに行くという女友だちを昔は、うさんくさい目で見ていましたが、今、わたし、それできちゃうからね。笑
普通に、ハシゴしてるしな。
人様には相当痛々しい女に映っているのかもしれませんが、何と、一人で飲みに行くという行為は、一人でカフェに行く行為や一人で映画を観に行く行為以上に楽しいのですよ、ふふふ。
一人で旅をするという行為は、楽しいとはまた違った感覚が味わえるのですが、まぁ、ここでは長くなるので書きません。
何せ、何を頼もうが何を考えていようが誰にも邪魔されないで、自分のペースで飲む事ができるんですもん!

あー、おっさんと呼ばないで下さいわたしを。
もちろん、気の合う仲間と飲みに行くのもとても楽しい。しゃべり飲み食べる。これ以上に楽しい事はないというくらいの気持ちになる。ストレス発散にもなっていると思われる。

…と、ここまで勢いで書いていてふと思う。
これ、まったく役に立たない書物だ。
負け犬から脱出する術は何1つ書いてない。
負け犬である事を楽しんでいる自分を再確認して満足してしまう!!!
まさに、独身の女友だち同士で飲みに出かけた時と同じ結果である!!!

ま、それが楽しいという事は皆様よくご存知だと思うので今さら言う必要もないですかね。

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2007年4月 9日 (月)

『孤独と不安のレッスン よりよい人生を送るために/鴻上尚史』(大和書房)

なんだかご大層なタイトルですが、そこはそれ、鴻上さんの本ですから、そんなに肩肘張らなくても読めます。

「世の中に、孤独じゃない人なんかいないし、不安じゃない人もいない」

というとてもとても基本的な事を踏まえ、人生の中で、孤独や不安に襲われた時、それをどう乗り越えればいいのか、孤独や不安とどう付き合っていけばいいのか現実的に対処する方法を書いておられます。
人生どうすればいいのか苦しい時、占いにすがったり、怪しげな宗教にすがったり、家族や友人、恋人に依存したりしちゃわないで生きるコツが詰まっています。
ここで、
「え?家族や友人、恋人にすがっちゃいけないの?」
と、思う人もいるかもしれませんが、でも、
「依存」と「頼りにする」は、全く違うんだよという事を、おせっかいかもしれないけれど、書いちゃっておきます。
「依存」は、一方的だけれど、「頼りにする」のは、自分も「頼られる」前提だと思うし。
頭では分かっているけれども、絶対に依存しちゃっている時はある。
わたしもそういう時があった。
そういう人間関係は、必ずいつかは破綻する。
だから、わたしは依存しないようにしようと学べたんだけれども。

この本、人と待ち合わせをしていた日にカバンの中に入れていて、列車の中やらカフェやらにいる間に読んでしまいました。
人を待つ間の暇つぶし以上の魅力のある本でした。
ハウツーモノ嫌いなわたしでも、鴻上さんに対する贔屓目じゃなくて、本当にためになる本だと思ったのでした。

細かい現実的なアドバイスは役に立つんだろうけれど、何よりも、読み終わった後に、
「要するに、自分に正直に生きていく事が一番いいんだ」
という、とても単純な事を改めて気付かされて、気持ちがスッキリする。
それと同時に、今までの自分の生き方が間違ってなかったんだという自信が改めて心に湧いて嬉しい気持ちにもなった。
素直とわがままは違います、もちろん。

わたしは、小さい時から、かなりマイペースな子だったようで、自分では気をつかって生きているつもりだけれど、小学校・中学校・高校と、制服を着て、人との差異がとても簡単に分かる「少人数の世間」の中に入ると、割と浮いていた子だったようだ。
一緒にトイレに行ったりしないといけない女子グループというものに属さなかった女子だったので、快く思わないクラスメートも多くいたかもしれない。
けれど、子どもの頃から、わたしは、どうやってその意見を獲得したのか、
「本当にいい友人は、そんなグループに属さなくてもできる」
と、理解していたようだった。
今にして思えば、です。
当時は、ただボーっとしていて、仲良しのYちゃんがいればそれでいいと思っていたような気もするのですが。
Yちゃんもけっこうマイペースだったが、わたしもマイペースだった。
お互いそれでいい関係で、実はおとなになった今もまだ友だちだ。
不思議なものだ。

その後も、中学や高校でも、仲の良い友人は少ししかいなかったし、クラスメートの名前は半分も覚えずに卒業しちゃったけれども、それで特に寂しいと思わなかった。
その当時仲良くなった人たちは、おとなになった今も仲いいままだ。
無理せず、自分を偽らずに付き合った人たちだから、今も素のままの自分で付き合えるから長続きするんだろうなと、思う。
わたしが本当に心底しんどがっていた時期、遠く離れているにもかかわらずわたしを支えてくれたのも、その時からの友人だった。
彼女は、自分が無理をしてまで友人を支えようとはしない姿勢だけれど、わたしがしんどい間は常に支えてくれていた。かなりできた人かもしれない。
はっきり言って、わたしは、その時、そのゴタゴタの当事者たちなんかどうでもよくなり、
「Nちゃんが、いつか苦しんだり困った時に支えてあげられる人になろう」
と、思って、気持ちの整理がついたような気さえする。
何も見返りもなくても支えてくれる、血のつながっていない人間関係って、大事にしなければと、思った出来事でした。そしてそういう友人のいる自分をありがたいと思った。

でも、そういうものすごく素朴な事が、人生では難しくなる時があるようだ。
でも、そういう時、この本はどうすればその無理な生き方をやめられるのか教えてくれるような気がする。
わたしの周囲に、数人、とても繊細で、何もかもうまくやっていこうとしすぎて苦しんでいる性格の人がいる。
そんな人に、ぜひ、この本を読んで!と、思う。
人生は、100点じゃないといけないなんて事はないと、鴻上さんは説く。
27点の日もあるし、63点の日もある。
でも、人生はそんなもんだよ、と。
100点ばっかり取ろうとすると、しんどいだけだよ、と。
そう言われりゃ~そうなんだけどね。
松井秀喜の打率だって、3割だよ、と。
イチローだって、3割5分だよ、と。
それであんなにすごい!天才だ!って、褒められてるんだから、と。

「現在の自分」と「理想の自分」のギャップを自らかけ離れさせて苦しんでいるだけなんだろうな、その人たちは、と、思うのだけれど、わたしの理屈を読むよりも、この本を読んだ方が説得力あるんだよね。
理想の自分に近づくために努力するのはいい事だけれど、最初から100点を目指すからしんどいのよね。
今、10点なら、15点をまず目標にすればいいんだよ、きっと。

分かった風な口をきいても、わたしも、例えば、恋人にフラレたりすると、
「わたしの何がいけなかったんだろう」とか、「どうすれば好かれたんだろう」とか、思う。
これ、ごく普通の悩み事だと思うけれど、でも、それって実は考えてもどうしようもない事なのかもしれない。
そりゃあ、努力は必要かもしれないが、例えばわたしの場合だと、たいがいの原因は、
「俺の事、あんまり好きそうに見えなかった」とか、「あんまり電話をくれなかった」とか、「プレゼントもらってもあんまり嬉しそうな顔しない」とか、考えれば考えるほどどうでもいい問題だったりするし。
…というか、よく考えてみれば、その恋人たちは己が一番好きなんじゃないのか?!
まずは自分の事しか考えられないからこその発想なのでは!?

まぁ、要するに、どんなに努力してもわたしの淡白さは、変えられないのなら、それでオッケーという人とならうまくいくんだろうから、それでいいんじゃないのかな、とか。
今日も、母親に、
「もっとおいしそうにご飯食べなさい」
と、言われたけれど、わたしはその時、
「この麻婆豆腐めちゃめちゃおいしいなぁ~!」
と、心の中で思っていたので、もう、そういう淡白な性格なのはあきらめるしかないのよ。笑

そうかと思えば、この人にはわたしは絶対に理解してもらえないだろうなぁと思っていた人に、ある日ふと、
「あんたはとってもいい子だよ」
と、真顔で言われてびっくりしたりもする。
(「子」っていう年齢でもないんですが、それはその人がそういう表現をしただけなので。)

あ。何だかまるでわたしが最近フラレたみたいな内容になってきちゃいましたが、違うのでご安心(?)を。

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2007年3月 4日 (日)

『12歳の大人計画/松尾スズキ』(文藝春秋)

劇団、大人計画の主催者松尾スズキ氏が、テレビ番組の企画で「ようこそ先輩」的な事をした内容を書籍にまとめた一品。
松尾スズキ氏の母校に行き、3日間ほど6年生に授業をするという、ご本人にもお子様たちにもまことにスリリングな体験であること間違いなし。
しかも、授業の内容が「大人とは」である。
哲学か?
どうなんだ?
あまりにも漠然だぞ。

ってゆうか、世間的にはまっことすっかりおとななはずなわたしだって、「大人とは?」って、言われると、ちょっと返答に困るわけですので、松尾スズキさんがいかにおとなな授業をなさるのか、また、小学6年生さんたちが、それをどう受け止めるのか、興味津々で読んだのでした。

まず、授業の最初に、「銀座の恋の物語」を歌わせるというもの。
しかも、恥ずかしがって歌わない小学6年生に、変なふりつけまでさせるんである。
あんたさー、あんたの劇団の役者じゃないんだから、堅気の小学生さんたちになんて事をさせるんだよ、とか、思いつつ、もし、自分の子どもがそんな授業を受けて来たと話して帰って来たら、わたしはすっごく喜んで聞くなぁと、思った。

あ。
ってゆうか、「自分が小学生だったら、そういう授業を受けたい」という発想ではなく、今、わたしは、「自分に子どもがいたら」という発想をした。
その辺は、けっこうおとなだな、わたし。

おとなとは何ぞやという事を、ありとあらゆる方法で松尾スズキ氏は、子どもたちに試みる。
自分の周囲のおとなを観察させたり、インタビューさせたり。
やはり、子どもにとって、一番の身近な「おとな」は、「親」である。
親の「おとななところ10個」と、「子どもっぽいところ10個」挙げさせるのは、なかなか面白い。

母親の子どもっぽいところを、「ドラマを録画していても見ない」と、書いていたり、父親の子どもっぽいところを、「魚つりに行くと、妹に負けまいとする」なんて書いていて、とても微笑ましい。
親だって、子どもっぽいところがたくさんあるんだと発見できて、いいぞいいぞー。
反対に「おとななところ」を挙げさせると、
母親に対して、「時間を上手に使っていると思う」なんて書いていたり、父親に、「いつも手伝いにまわって、自分の意見を無理に言わない」なんて書いていて、なかなか鋭く観察されているぞ!と、思う。
小学6年生ともなれば、かなりな「おとな」だなぁ~と、感心しきり。

その中で、松尾スズキ氏が、自分の周囲のおとなに事前にアンケートをとって、自分のどんなところがおとなで、どんなところが子どもか書いてもらっているものも載っていたのだが、そのある意見に共感したのでした。

自分を子どもだと思うところ。
「見合い結婚ができないところ」

そうだ。
わたしはやっぱり子どもっぽいパーセンテージが高いのだ、多分。笑
要するに、
「大人の事情を飲み込んで、恋だの愛だの言ってないで、見合い結婚できる」ような大人ではないんだなぁ~と。笑
やぁ~、この間、実は、半強制的に見合いをさせられたのだけれど、相手の社会的地位もお給料も、兄弟構成も何ら「世間的」には問題ない人で、相手の話題に全く興味が持てず、お互い会話は全くはずまなかったけれど、おそらくはとても温和で優しい人であるという事は分かったのだけれども、わたしは断ってしまった。
紹介者に数日間、説教されて少々うっとーしいんであるが。
その理由を、
「だって、好みのタイプの男じゃないんだもん」
と、言ったら、激しく怒られた。
何で!?だって、それ大事な要素でしょ!?
と、思うわたしは「世間的」には「子ども」なわけだ。

そんなわたしの大人計画な話しは置いておいて、この本、軽く読みつつ、軽く哲学的です。
さすがは松尾スズキ氏。
でも、読んでて思ったけれど、松尾スズキ氏も、おそらくは子どもパーセンテージ高いな。笑

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2007年2月 3日 (土)

『カエルのピング/スチュアート・A・ゴールド』(幻冬社)

知人が読め読めとすすめるので、読んでみた。
実は、こういう人生のハウツー本が苦手なわたし。
なんとかのなんとかは全て砂場で教わったとか、なんとかのなんとかは全て猫から教わったとかいうような…。

一応、この本は東洋哲学やスピリチュアルななんとかを基に書かれた…とか、紹介されていたりしたりして、世界20カ国で訳されているとか言われていたりしていたりするんですが…わたしは無理、何がおもしろいのかさっぱりきっぱり分かりません。
苦痛な読書タイム。
とはいえ、これはもう読む人それぞれがどう感じるかという問題なので、別にこの本に涙し、大絶賛し、人生観が変わったという人を否定する気も全くありません。
わたしにこの本をすすめてくれた知人も、人生観変わった!って、感動していましたし。
要するに、わたしが、人の説教を聞けないへそ曲がりな人間なだけなんでしょう。

主人公のピングというカエルくんが、狭い池を飛び出して、広い世界へチャレンジし、挫折を味わいつつも、賢者であるフクロウの教えに耳を傾け地道に努力した結果…成功を収めるという…お話し…というか、え!?結末はそれかい!?
つーか、何を教えたかったんだ!?
真実は、読者の中にあるとかいうオチなのか?!

という、突然の肩透かしをくらったら、もう次のページはあとがきです。
意味分かりません。

そもそも何でそんなにフクロウの言う事を全て受け入れるの?
フクロウが悪い奴だったらどーすんの?
フクロウだって全能の神じゃないし。
ん?
これは、宗教観の違いからくる理解できなさなのか?!

もう、分かりません。
生き方なんて、フクロウの説教を聞いていれば何とかなるというもんではないでっしょい。
自分の足で歩み、失敗も成功も経験してこそ楽しいんではないでしょうかい。
おいらごときの青二才に言われたくはないでしょうが。
フクロウの説教を鵜呑みにはできねぇ。
もちろん、先人の言う事は大事なヒントがたくさんかくされていますが、こんなにピングくんのように鵜呑みにしてもいいかなぁ。
もっと自分の頭で考えて行動してもいいんでないかなぁ。

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2007年1月13日 (土)

『みぃつけた/畠中 恵』(新潮社)

「しゃばけシリーズ」の最新刊が出ました!
嬉しいな!っと。

わたしは勝手にしゃばけシリーズと呼んでいるけれど、本当は何シリーズと呼ばれているんでしょうか?
「若だんなシリーズ」?

今回は、いつもとは違う番外編で、絵童話風。
挿絵の柴田ゆうさんの絵がメインです。
とっても可愛い!

若だんなが5歳の時のおはなし。
病弱な若だんなが、どんな子ども時代を過ごし、そしてどのようにして妖の者たちに出会ったのかというお話し。
本編のシリーズを読んでいれば、挿絵のあちこちに現れる妖の者たちにニヤリとすること請け合い。

短いお話しなので、詳しい感想は書かないでおきます。
とにかく可愛い本に仕上がっています!

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2007年1月 8日 (月)

『ぶらんこ乗り/いしいしんじ』(理論社)

図書館によって、この本を児童文学にジャンルわけしているところや、一般書にジャンルわけしているところがありますが、わたしは読んでみて児童書ではないなと、思いました。

読み始めて、数ページは、主人公の少女の「あたし」という一人称と、ぷつりぷつりと切れる口調に、ややとまどった。でも、読んでいるうちに、それがこの物語には必要な淡白さなのだと納得してくる。

小学5年生の少女と、1年生の弟。
両親は画家の母と、額縁職人の父。
2人はとてもラブラブだ。
祖父も有名な画家だったようだが、酒で死んだ。
祖母は美しい女優だったそうだが、今は啖呵のいいおばあちゃんだ。
少女は、かわいくどこにでもいるような女の子。
でも、弟は超天才少年。
1年生だけれど、5年生のお姉ちゃんの勉強も理解できる超天才。
クラスみんなの人気者。
でも、絵だけは母に似ずへたくそ。
幼稚園児のかくような絵しかかけない。

と、プロフィールをならべると、どんなファミリーの物語がはじまるのかなと思う。
でも、わたしは、この作品は小説ではなく「詩」だと思って読んだ。

ある日、弟がブランコ事故で声を失い、筆談でしかしゃべる事ができなくなるところから、急速に「詩」になっていく。
声は出るのだが、この世のものとは思われないような恐ろしい声で、聞いた者は意識を失ったり、吐いたりする。
だから、弟は、いつも筆談をした。
夜中にやってくる「動物たち」とは、会話できるのだと弟は言う。
そんな弟の孤独を誰も理解できない。
姉だけは、何とか理解しようとするが、動物たちと会話できると言う(書く)弟を、たまにバカにしてしまったりする。

孤独がきわまり、弟はいつしか消えていなくなる。
消えていなくなった弟の事を、姉が回想する形で進行していく物語だ。
幼い少女の周囲では、愛するものたちが突然、スーッと消えていく。
その喪失をどう乗り越えていくのか、読者は一緒になって体験するのではなく、まるで「詩」を読みながら一緒になって涙を流させられる。
こんな小説は、久しぶりに読んだ。
この作家が人気があるのもなんとなく分かる。

多くの感想は書きたくない。
だって、これは詩だから。
読んで、この世界観を味わってほしいと思う。
表紙の絵が荒井良二さんというのもぴったりだ。

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2006年11月 4日 (土)

『喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!/齋藤孝・倉田真由美』(集英社)

職場の先輩に、
「あくびちゃんは、これを読みなさい」
と、手渡されました。笑

「だめんずうぉ~か~」でお馴染みの倉田真由美さんと、日本語の先生、齋藤孝さんの対談集。
一応、恋愛論を展開しているんだけれど、人間にとって、いかに言語がコミュニケーションアイテムとして大切かというお勉強にもなりました。

要するに、どんな話しをするか、どんな言語を使うかで、人の話を即物的ではなく、きちんと想像力をもって聞けるか、自分勝手でないか、客観的な目を持っている男かどうかを瞬時にして見分け、末永く失敗のないお付き合いをしましょう!という本なのですが、これ、女の人が読むよりは、男の人に読んでもらいたいです。
だって、齋藤孝さん曰く、「今の日本の若い男性の8割がだめんず」なんだそうですもん。
しかも、2割ほどしかいないいい男というのは、仕事にも趣味にも充実した生活を送っているので、そんなに女性にべったりはしないんだそうです。
イチローを見てみなさい、仕事に集中するために、手のかからないしっかりした女性と結婚したでしょう、と。
これが、甘ったれたべたべたする女と結婚していたら、打率なんかとんでもない事になっていますよ、ですって。
知らないです。齋藤さんがそう言うんだもん。
ふーん。
イチローかぁ…。
じゃぁ、イチロー並のどこにいるのかすら分からない、本当にいい男を捜すよりも、だめんずに更正してもらった方が楽じゃーん。

なんてね。
更正できないから、だめんずとして成長してきてしまったわけだから、無理だろうけどね。

で、齋藤孝さんのアドバイスとしては、
「どうせだめんずが多いこの世の中なのだから、だめんずの中の仕事のできる男を選びなさい」
との事。
ふむふむ。
倉田真由美さん曰く、
「毎回、だめんずに当たってしまう女性に多いタイプは、心が広すぎる人、優しすぎる人」
だそうです。
わたしだ!
(自分で言うな!)
「どんな男にでも、でも、この人にはこんないいところがあるんだから」
って、いいところを探してしまいがちな人が、だめんずに当たりやすいんだそうです。
「長所を探さなければならない時点で、ダメ男だという事に気付くべき」
なるほどぉ~!
だめんずは、その心の広さに甘えようとやって来てしまうそうです!
なるほど~!

メアリー(by、『秘密の花園』)のように、良かった探しをするのはやめた方がいいという事でしょうか。
どんな境遇でも、ポジティブに小さい事でも良い事を探してばかりいると、だめんずにひっかかるという事なのでしょうか嫌われ松子みたいになるという事でしょうかそうなんでしょうか。

ってゆうか、職場の先輩に、この本を「読みなさい!」と、言われるわたしは何…?

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2006年10月 5日 (木)

『あめふらし/長野まゆみ』(文藝春秋)

生きている人間が1人も出て来ない。
どの「人間」も、一度命を失い、魂だけが仮の「人間」の体を借り、迷い出た者どもばかり。
そして、前編に蛇の気配が漂う。
何とも不健康な気配が漂い、ずっと小雨が降っているような物語だ。

現世に漂い成仏しきれぬ魂を、男が成仏させる。
魂は蛇に宿り、蛇は人をつけ狙う。
人が蛇なのか、蛇が人なのか。
あぁ、気持ち悪い。

扉を一つ開けると、そこは30年前だったりする。
いつも乗る地下鉄が、昭和のものだったりする。
隣で仕事をしていたアルバイトの若者が、実は戦時中に死んだはずの兵士の魂を抱えていたりする。
それでも、人々は気付いてか気付かないでか、淡々と彼等の上を通り過ぎる。
異形の者は、所詮は人間と交わる事がないのか。
異形の者も、それを承知の上なのか深入りしようともせず、ぬるりと人間の足の隙間をすり抜けて行く。

こんなに気持ち悪いのに、それでも読まずにはいられないのが長野ワールドなのか。
うぅむ。

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2006年9月16日 (土)

『うそうそ/畠中 恵』(新潮社)

しゃばけシリーズ(?)の、最新刊。
やっと読む。
おそっ…。
まだまだ読まなきゃリストはたっぷりあるのです。
ひぇ~。
人間、死ぬまでに一体、読みたい本のどれだけを読めて終われるのでしょうかねぇ。
まだまだジェイムス・ジョイスの何かすげぇ長いおかしな本とか、読みたいんです。
読まないと死ねないんです。
いや、例え一ヵ月後に読み終わったとしても生きていますが。

江戸の回船問屋兼薬種問屋の長崎屋には、病弱すぎて大変な跡取りの若だんなが住んでいる。
風が吹いたら風邪をひき、外にでればふらりと倒れ…と、親きょうだいや店の者たちを心配させる事にかけちゃぁ、お江戸一。
あまりの病弱さに、両親は甘やかし、その甘さときたら向こう三軒両隣、いやそれ以上に噂が広まるほどの甘やかしぶりなのだった。
まぁ、そんなに甘やかされても、もともとの生真面目な性格のせいか、若だんなは一向に調子に乗るわけでもなく、けな気におのれのふがいなさを反省する毎日なのです。
ところで、この若だんな、病弱に生まれた代わりと言っちゃあなんだけれど、人には見えない者たちの姿が見える能力を持っている。
長崎屋に住み込んでいる小鬼の家鳴りたちや、屏風覗き…まぁ、そもそも長崎屋の手代の佐助と仁助があやかしの者たちなんだからおかしな話しなのだ。
江戸に起こる小さな事件を、若だんなは布団の中で推理する。
駆け回るのは、彼のお友だちたちである妖の者たち。
病弱妖怪捕物帖といった風情である。

今回は、若だんなのあまりの病弱さに母親が、意を決して、
「箱根へ湯治へ行きなさい!」
と、宣言。
守り役に兄の松之助と、手代の佐助と仁助を伴なって、若だんなは生まれて初めての旅に出る。
ところが、のっけから2人の手代が行方不明になり、ようやくたどり着いた宿では兄と2人で誘拐される…と、どうしてだかまわりにほっといてもらえない若だんななのでした。

些細な誤解が、人の妄想を膨らませ、どんどんと人を追い詰めてきて、やがては人の命まで狙う事件に発展する恐ろしさ。
我が身かわいさに、昨日まで友だった者を、昨日まで愛していた者に背を向ける愚かさ。
大切な者を切り捨てて生き残った者に、今は一体何が残っているのだろうか。

畠中恵さんの筆致は、どんな愚かで哀しい事件を描いていても、なぜかのほほんとひょうきんな感じがする。
切羽詰まっていないようなのに、気付くと、人間の愚かさ哀しさが浮き上がってくる。

さてさて、お次は、どんな若だんなと妖の者に出会えるのかしら。

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2006年7月28日 (金)

『さあ、気ちがいになりなさい/フレデリック・ブラウン』(早川書房)

これも、以前読んだ異色作家短編集の②。
何と、訳が星新一さんなのである。
読書好きな子どもなら一度はハマる(はず)の星新一さんである。
外国にも星さんのような人がいるのねと、思いながら読み進める。

これまたおもしろくて眠れない。
あー。明日も出かける用があるのに寝ないと寝ないと…と、思いながら午前2時。

表題作の「さあ、気ちがいになりなさい」が、一番おもしろかった。
1人の人間にとって、何が真実で何が虚構なのか。
人に対して良かれと思ってした善意が、果たして本当に良かったのか。
人は本来の自分の姿に気付かぬまま安穏と生きていける存在なのか…。
皮肉な話しをユーモアある筆致でぐいぐい読ませる。

読み終わった後、何だか自分が自分じゃないような、わたしだと思っているわたしは本当はわたしじゃないかもしれないとか、人から見るとわたしはわたしじゃないのかもしれない…などと、そもそもの己の存在を危うくする話しだ。
わたしがわたしじゃないとしても、今までわたしとして生きてきたのだから、知らぬふりをして生きていく事も確かに可能だ。しかし、さぁ、それは気が狂うほどの努力を要しなければならないのではないだろうか。

さあ、気ちがいになりなさい。

うふふふふ。

しかし、どの作品もにひやひやニヤリの連続だ。
「ぶっそうなやつら」も、なかなかひやひやニヤリ。
なんてことない田舎の駅でくりひろげられる心理劇。
これ、そのまま舞台で二人芝居として演じられそうな感じ。
おもしろい。芸達者な男優2人でぜひ演じてもらいたい。
人間の普遍的な感情をデフォルメしてあって、本当にニヤリである。

「おそるべき坊や」も、ユニークだ。
このフレデリック・ブラウンという作家は、オチで読者をニヤリとさせたりホッとさせたりするのがとても上手いと感じる。変な話したちなのに、最後のオチで読者をちゃんと現実世界にもどしてくれる親切な作家だ。
岩井志麻子には絶対できない性格の良さだ。笑

「電獣ヴァヴェリ」などは、何だか逆にその不思議の世界の方がまともな世界に思えてくる。
SFで心癒されるというのも滅多にない体験。

あー!このままでは全部の感想を書いてしまいそう!
おもしろくて何度も読み返したい短編集である。
熱狂的な読者がいる事も納得。
オススメ!!!

*******

話しが現実になって申し訳ないが、今日は人生で2度目の二日酔いなのだ。
昨夜は職場の歓送迎会で寿司屋へ。
お寿司の皿もたくさんあるのだが、大皿にマグロの頭がドーンと乗っかっていて、それに直に箸をつけて食べるというなんともワイルドすぎる料理の数々が出て来た。
その時点で、魚の刺身が嫌いなわたしは、食欲が失せた。
あんだけでっかい魚は、もはや魚類ではなく哺乳類だ。
つまりは、周囲の人々は牛に箸を突っ込んで生で食っているのだ…。
というおかしな自分の妄想でさらに気持ちが悪くなって、お皿の隅っこに乗っかっていたスモークサーモンを三切れ食べて、あとはする事もないので飲んでいた。
それが間違いの元だったようで、気付くとビールから始まって、日本酒、ワイン、焼酎…といろいろ飲んでいたらしく、帰る頃にはふっらふらだった。
久々に自力で帰れずタクシーに乗った。
3000円の痛手!
そのままお風呂にも入れず熟睡。
朝、お風呂に入ろうと起きると、強烈な吐き気。
朝から嘔吐。
食事中の方いらっしゃったらごめんなさい。でも、ネットしながら食事っていうのもどうかと思いますよ。
スモークサーモンがまったく消化されず吐き出されてきたね。
ほんと、すんません。

朝食を食べる気力もなく、仕事場でも何度も吐き、吐いては働き、働いては吐き…。
ものすごい反省しました。
午後からは少し楽になり、今も何となく気持ち悪いながらも食欲が出て来たのでした。
明日から、中部児童文学セミナーで名古屋入りするというのに、こんな事ではいかんたい!
お酒はおいしく飲まねば。

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2006年7月15日 (土)

『チョコレートコスモス/恩田 陸』(毎日新聞社)

雑誌で、恩田陸さんが演出家で脚本家の鴻上尚史さんと対談をしていた時に、演劇物を書いてかいてみたいと言ってたような気がする。
で、この『チョコレートコスモス』が演劇物の話しだと新聞を読んで知って、読んでみる。

正直、3分の2くらいまで、全然おもしろくなくてうんざりする。
後半の、響子というスター女優と飛鳥という新人女優のオーディションでの共演の場面だけは迫力がある。
あとは、おもしろくない。

こんな売れっ子作家さんへ対して暴言を吐いてしもうて申し訳ないですだ。
でも、演劇物を物語にする事の大変さを知った気がする。

そもそも、わたしはお芝居が好きで舞台をよく観に行くし、恩田さんがイメージしている小劇場の雰囲気とか、商業演劇の雰囲気も理解できる。
作者が何を書こうとしているかとか、各場面場面での役者たちが何を表現しようとしているのかのイメージも理解できる。
でも、逆にお芝居に全くと言ってよいほど触れた事がなく、そして、全く興味がない読者がこの本を読んだらどういう感想を持つのだろうか。
わたしはそっちの方が知りたい。
あいにくわたしの周囲には類は友を呼ぶのか、演劇好きの友人が多くて何の参考にもならなさそうだけれど。

この本が面白くない理由は、いろいろあるとは思う。
生意気な事言うてるな、おいら。
一つは、誰の視点で物語を読んでいいのかいまいち分からない事。
場面場面では、脚本家の神谷とか、W大学の学生劇団員とか、佐々木飛鳥という少女とか、スターの響子とか、それぞれの視点で読める。でも、全体的にはどうにも読者の身の置き所のない感じがぬぐえない。
何も感情移入しなくても本は読めるし、楽しめる。
でも、これはお芝居を題材とした作品なのだ。
何度も出てくるいろんな俳優たちが、さまざまな作品を劇中劇さながらにこの本の中で演じているのだ。
つまり、読者は、「素の時の登場人物」と、「登場人物が舞台で演じている時の登場人物」との2つの感情を同時に考えながら読み進めなければならないのだ。
めんどくさいでしょ?
だから、生の舞台を観た事がなかったり、アマチュアなりプロなりで演劇の経験をした事のない人がこの本を読んだ時に、めんどくさくないのか、ちゃんと物語を楽しめるのかどうか、わたしは知りたい。

それに、この作品の中で随所に散りばめられている演劇小ネタ。これに気付きながら読むのと気付かないで読むのとでは楽しさも違うと思う。
例えば、途中に女優の響子が話題の演出家の作品に出ている場面があるが、その演出家の表現が、野田秀樹そっくりだという事とか。
その実験的な作風の数々の例えが、NODA MAPそっくりであるという事とか。
んで、今こうやってわたしが書いている事は、演劇に興味のない人には意味不明なわけで。
つまり、こういう事を延々と書かれていて果たして読者は楽しいの?っていう謎。

何よりも、この日本には『ガラスの仮面』という演劇物を紙の上に書いた大傑作が存在してしまっているという事。
もちろん、あの作品に出てくるような天才少女は現実にはいない。
でも、そのありえない天才に読者を感情移入させられる手腕はすごい。
もちろん、マンガと小説では表現方法が全然違うんだけれど。
『チョコレートコスモス』に出てくる、天才少女飛鳥には感情移入できない。
「あー、天才なんだねぇ…ふぅん」
と、一歩も二歩も引いて見る事しかできない。
それは、『ガラスの仮面』で書かれているような主人公の心の葛藤や生きてきた背景が、飛鳥には見えてこないからなんだと思う。

物語も、さぁこれからだ!という所で終わっている。
舞台は、幕が上がってからが本当におもしろくて大変なのに、幕が上がる前までで終わったらつまんないじゃないか。料理でいえば、オードブルで終わっちゃっただけじゃないか。
王子様と結婚したところで終わっても、後の生活の方が大変じゃないかメルヘンめ!
的な、ジレンマを感じるのであります。
まぁ、幕が上がってからを書くのが一番大変なんだろうけれど…。
でも、だからこそ、そこを読みたかった!
恩田陸さんなら書いてくれるんじゃないかという期待があった!

生意気な事をたくさん言いました。
すんません。

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2006年7月 6日 (木)

『文士の生魑魅/車谷長吉』(新潮社)

「生魑魅」
「いきすだま」
と、読ませている。

いきすだま。

すあま?

何だか可愛いのに不気味な響き。

車谷さんの本には、学生の頃?もしかしたら高校生の頃?『塩壷の匙』で、初めて出会った。
父親の本棚にあった文庫本で読んだ。
私小説というのらしいが、当時のわたしにはあまりにも時代がかっているように読めて、私小説とは思えなかった。
話しの良さの半分も理解しなかった。
でも、何だか魔力のある言葉遣いをする人だなぁと思った。

最近、たまに、読書好きという人種は、高じてくると、美食家たちと同じように、ゲテモノが食べたくなってくるのではないかなと思ったりする。
でも、車谷さんのような美しい文章に出会うと、やっぱり、地味でシンプルでも、人は美味しいものが食べたいのかもしれないと思ったりする。

貧乏くさくて地味でシンプルなのに、何だかとても色気のある文章を書く人なので、魂を文筆に捧げた質素なおじ様というのが、わたしの車谷さんへのイメージである。
顔見た事ないしな。
でも、この随筆集を読むと、あぁこの人は毒蛇だなぁと思う。
「毒蛇」というのは、車谷さんが、この本の中で他の作家たちを半ば罵倒し半ば尊敬して使っている言葉なのだけれど、そう言うあんたも充分に毒蛇だよと、思う。

小説家にならなかったら、きっとどこかで野垂れ死にしているような、もしくは死ななくても人にとっては迷惑でしかないような、むしろさっさと死んでくれと思われるようなロクデナシなんだろうなぁ。
顔見た事ないけど。
言葉の端々にそんな気配がたちこめている。

失礼千万ですみません。
でも、これ、褒め言葉だから。
やっぱり小説家っていう、いきすだまという爆弾を抱えて生きている人はいるんだなぁ。

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2006年7月 4日 (火)

『一角獣・多角獣/シオドア・スタージョン』(早川書房)

こんな本が読めるのはラッキーだったのだと、解説を読みながら思ったのでした。
バーバままさまありがとうございます!

幻想小説?SF小説?
その狭間のような珠玉短編集。
熱烈な愛読者がいることも納得。
ちょっとハマります。うふふ。

10編の短編が収録されていますが、わたしは、
「熊人形」
「反対側のセックス」
「死ね、名演奏家、死ね」
「考えかた」
が、特にお気に入り。

どれもこれも血なまぐさい、人間の欲望と孤独と愚かさが描かれているけれど、ラストの大どんでん返しがあまりにも見事なために、なぜか読後が爽やかなのだ。
幻想文学を読んだ後というのは、なぜかちょっとだけ厭世的な気持ちになったり、自分の価値観というもののあまりにもの頼りなさと、今自分の生きている場所のあまりの不確かさに、孤独な気持ちになったりする事がよくあるのに、この作家の幻想さは、なぜかわたしを爽やかな気持ちにしてくれる。
読んでいる間は、本当に気味が悪くなったりするというのに。

それはもしかしたら、「死ね、名演奏家、死ね」のように、主人公のあまりの勘違いと泥沼な精神を、現実世界の音楽家仲間たちがあっさりと断罪してしまう潔さだったり、「反対側のセックス」のように、本当に世の中には人間の価値観だけではない他の生き物たちの真摯で真面目な生活があるのだという清々しさだったり、「考えかた」の、主人公が発するラストシーンのあまりにも短いけれど、しかし、とても真っ直ぐなセリフのせいなのかもしれない。

日本の幻想文学も好きなので、それほど多くではないけれど読んでいて思う事は、もっともっと粘着質で、ラストにも救いがないものが多いという印象がある。
それとも、夏目漱石(だったけ?)の「押し絵と旅する男」のような、どこまでもどこまでも堕ちていく事を美しく描くナルシストっぷりとか。
このシオドア・スタージョンという作家には、そういう感傷的なところがないからのような気がした。
あくまでも作家は客観的に登場人物たちを描き出しているような気がする。

読みながら、まるでミロの絵を見ているような感覚にたまに襲われた。
こんな感覚はもしかしたら初めてかもしれない。
おもしろい。

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2006年6月14日 (水)

『七人の恋人/宮藤官九郎』(角川書店)

数ヶ月前にあったクドカンの舞台の脚本ですな。
演劇の脚本が、こんなにあっという間に本になるという事はすごい。
鴻上さんのだって、こんなにあっという間に本にはならない。
ましてや角川書店からなんか出ない。
どれだけ、今、この人が売れっ子なのかがよく分かるなぁ。

この舞台、観に行こうかどうか迷ったんだけれど、日程が調整できなくて行けなかった。
でも、すごい辛口ですが、観に行かなくて良かった…です…。
田舎から舞台のチケット代より高い交通費払って、場合によっちゃぁ日帰りできないから宿泊までして、休み調整してって、いろいろやって、観に行ってこれだったら、ちょっとムカつく。

ゆるい。
ゆるすぎる。

おもしろいんだろうよ、きっと。
出演者は、今、小劇場系舞台やテレビで大人気の俳優さんたちだし、ゲストは田辺誠一さんだし。
おいしい舞台なんだろうよ。

でも、これ、うまい出演者が出てなければ、すげえゆるすぎる芝居すぎて、ちょっと許せん!笑
で、結論としては、阿部サダヲちゃんも尾美としのりさんとかも、三宅弘城さんも、クドカン本人も、演技上手だし、ギャグセンスもいいし、お客さんはそれなりに楽しめるんだという事はよーっく分かるんだけれど、でもなぁ。
例えば、セミプロくらいの劇団がこの戯曲を上演したら、ものっすごいグダグダでムカつくのが目に見えるんですけれども。

ホント、何かすごいごめんなさい。
クドカン好きなんだけど。
ま、わたしの見る目がないっちゅー事で軽く流しといてください。
夜中だし。
オーストラリア戦負けたし。
柳沢もっとシュート打てよって気持ちだし。

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2006年6月 1日 (木)

『お腹召しませ/浅田次郎』(中央公論社)

ちょっと変わった時代劇短編集。
浅田次郎さんが、幼い頃、祖父の語る昔話を思い出し、それを自分なりに時代劇にしたてたという謎の登場人物たちの人情どたばた。

いや、どたばたと言っても喜劇…とは言い難い。
人間、真剣になれば真剣になるほど、端で見ている人間にとっては、こんなにおかしな事もないというようなお話しが六編。
究極の悲劇は究極の喜劇なのかも…と、思ったりする。

そういえば、劇作家で演出家の鴻上尚史さんが、以前、雑誌のインタビューで言ってたなぁ。
「どんなに悲劇的な出来事にあっても、自分はどうしても喜劇的にとらえてしまう。深刻になればなるほど、客観的にそれを笑ってしまう自分がいる」
って。
そして、それをしない人は、どんどん泥沼にはまりこむ悲劇体質なんじゃないかなぁというような内容だった。
共感。

わたし、不謹慎かもしれませんが、シェイクスピアとかギリシャ悲劇とか、そういう、いわゆる悲劇とされている作品を観ていて、どうしてもウケてしまいがち。
もちろん、けなしているわけではなく。
とても、おもしろいと感じているからこそ、わざわざ戯曲を読んだり劇場に足を運んだりするんだけれど、
「絶対に泣かないね」
って、思う。
だって、すごいおもしろいんだもん。
悲しくはならん。
そういう自分をちょっとどうかしていると思った時期もあったんだけれど、昔の演劇仲間の一人と話していて、
「ってゆうか、オイディプス王って笑えるよね~」
と、言った瞬間、こいつは友だちだ!と、思った。笑

だって、何をどうやって実の父をそうと知らず殺し、実の母をそうと知らず娶る?
んで、それが何か生まれた時の予言なんだー!
運命とはおそるべき何とかかんとかー!
とか言ってるし。
もう、本当におもしろい。
主人公が追い詰められて深刻になればなるほど笑いそうになってしまう。
こんな作品はなかなかないと思う。
素晴らしい。

んで、すごい話しがそれたけれど、この本の表題作の「お腹召しませ」である。

主人公の貧乏侍が、跡取りがいないと困っているところに、自分の家よりも格上のお武家様から娘婿にと養子をもらう事になる。
良い縁談だったと喜んでいたある日、この娘婿めが、公金を横領して遊女ととんずらするんである。
もはや、お家とりつぶしかと右往左往していると、上司に、
「一つだけ手はある」
と、言われる。
まぁ、要するに義父であるお前がそのバカ婿の代わりに切腹せいというわけである。
腹を斬って、妻と娘が安泰であるならばそれもよいと思い、決意を固めて帰宅すると、
もはや、切腹の支度が整っている。
妻と娘が、
「後のことはわたくしらにお任せして、父は潔くお家のためにお腹を召しませ」
と、美しい顔をにこりともせずに言うのである。

何とまぁ、腹を斬る覚悟だったが、妻と娘にこうもあっさりと言われると腹が立つ。
もっと泣きわめいて悲しがってもいいではないかと思う主人公。

それにしても、公金をもって遊女と逃げたバカ婿はどこでのんびりしていやがるのか。
本来なら、あいつが腹を斬るべき事態なのに。
と、まぁ、主人公は恨みつらみでいっぱいになってくる。
一応、介錯を友人に頼んでみるも、友人も、
「人殺しなんかやなこった」
と、武士とも思えぬ言い草。
だんだんに腹を斬るのがアホらしくなってきて、主人公はとんだ男を押し付けてきた婿の実家にケンカまで売りに行く。
しかし、本人は、もう、腹を斬りたくない一心になってきているので、いたって大真面目なんである。

腹を斬らなければならないという一大事なのに、これまた読んでいる方は可笑しくて仕方がない。
笑っているうちに、だんだん主人公に腹を斬らせたくなくなってくる。
うん。
笑いというのは、平和な作用があるね、絶対に。

主人公が腹を斬るかどうかは、これは読んでのお楽しみ。

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2006年5月13日 (土)

『本日の水木サン/水木しげる・著/大泉実成・編』(草思社)

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これはすごい!!!

ベッドサイドに聖書を置かずに、この本を置いていれば生きていける!(断言)!
気持ちが落ち込んでいた時に、この本を一気読みすれば、何だか自分の悩みなんてちっぽけでバカバカしいものにしか思えなくなる!(断言)!
この人は、本当にすごい!!!

もう何も書く気がしないよ。
だいたい、表紙絵の自画像がハナクソほじってんねんもん。

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2006年5月 1日 (月)

『椰子・椰子/川上弘美』(小学館)

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読み始めてすぐに、何だこれ?!と、戸惑う。
日記形式なんだけれども、何だかわけのわからない事がどんどん出てくる。
鳥と話しをしたり、モグラと話しをしたり。
ん?
なんだなんだ…と、思っているうちに、なんだか変てこなのに楽しくなってくる。

タネ明かしをしてしまえば、これは、川上弘美さんが寝ている時に夢に見た事を脚色してお話しに仕立てたものなのだそうだ。
ヒロイン(?)の、わたしという女性は、夫がいるけれど、恋人もいるし、片想いの人もいるようだ。
そして、家に巣をつくった鳥の兄弟と話しをしながら生きている。
川上さんのようで、川上さんではない。
現実味がないのに、、妙にリアルで物悲しい気持ちになったりもする。
あぁ、そういえば、夢ってそんな感じだよねと、思う。

夢の中の川上さんは、夫に何の不満もない。
確かに、出てくる夫は優しく紳士的な感じがする。
夢の中の恋人は、芸術家で、ちょっと身勝手ではあるが、それも大した不満の材料ではなさそうだ。
夢の中の片想いの人は、川上さんが好意を抱いていると知っているくせに冷たかったりする。
夢の中でも、川上さんの中では、それなりに秩序はある。
しかし、突然、モグラがしゃべりかけてきたりもする。
でも、それも大した問題じゃない。

あぁ、おとなの愉しみ…と、思いながら読んでいた。
ワインを飲むように読む本なのです、きっと。

この冗談が理解できるようになるのは、やはり三十路を過ぎてからなのかもしれない!
年をとるのも悪くない。

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2006年2月24日 (金)

『こころのほつれ、なおし屋さん/村中季衣』(クレヨンハウス)

友人がお勧めしていた本。
この人のエッセイを読むのは2度目。
おばさまの真っ直ぐな意見をどかーんと書いてあるので、何だか親戚のおばちゃんと話をしているみたいでおもしろい。
言っていることは、まっとうすぎるほどにまっとう。
ユーモアをまじえて書いてあるので、それがおもしろい。

今回のエッセイは、著者が女子大学で講義をした時の様子を中心に、若い女性たちの微妙な心理が書いてあり、涙あり笑いあり、ちょっと切なくなったり…で、かわいらしい。
村中さんの講義は、机に向かって先生のお話を聞く…というスタイルではなく、読んでいて、これは何かに似ているな~と、思ったら、演劇のワークショップにすごく似ていた。
自己紹介の方法やら、シチュエーションを決めてどんどん役割分担を決めて物語ができていく様子や、言葉を発しないで他人といかにコミュニケーションを取るのかという方法やら…。
演劇の稽古で、しばしばこういう方法があったなぁと、懐かしかった。
でも、この本にも書かれているように、精神を開放するから、危ないっちゃー危なかったりもする。
成功した時は本当に気分がよく、みんなととても仲良くなれたような気がするし、自分を許せるような満足感があるんだけれど、方向性を間違えるとヤバイ。
ある意味、宗教的な感じになってしまって、開放するべき精神を内に内に閉じ込めてしまう可能性もある。

村中さんの講義を受けて、どんどん自己表現ができるようになっていく女子大生たちの姿を読んでいて、こんなにも人って、自分を表現したくてたまらないものなのか…と、切羽詰るものを感じた。
誰もが自分を表現したくてもがいているのかなぁ。
わたしを見て、わたしの話を聞いて、わたしを認めて!と。
だから、ブログも大流行なんスかね。
わたしも書いてるけど。笑

表現といえば、荒川静香さんが金メダル。
村主さんがかわいいから見る~なんて言ってたフィギュアスケート、すっかり荒川さんの美しさに魅了された単純なわたし。
だって、スタイルいいし、美人だし、演技してる姿が優雅だし、文句なしなんだもん。
何だか、メダルは結果としてついてきたって感じで、荒川さんの演技はメダル抜きでもピカイチに綺麗だったと思った。

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2006年1月28日 (土)

『リンダリンダ/鴻上尚史』(白水社)

鴻上さんの戯曲。
ミュージカル戯曲。
全編ザ・ブルーハーツを歌いあげる素敵なミュージカル。
山本耕史くんと松岡充くんが出るというので、一緒に行く人を探すまでもなく、妹を誘ってチケットを取ったのが、去年(妹は、松岡充のいるバンド、SOPHIAの大ファンなのだ)。

しかし、何でか知らないけれど、妹と何かを観に行こう聴きに行こうとチケットを取ると、土壇場でハプニングが起きて、どれも一度も一緒に行けたためしがない。
SUM41というパンクバンドのライブのチケットを取った時も、GLAYのUSJライブのチケットを取った時も、そして、このミュージカルのチケットを取った時も。
わたしが交通事故に遭ったり、台風が来たり、妹が高熱を出したり…と、何かが起きるのでした。
相性悪いんちゃうか、実は。笑
むう。
今年は、妹と新感線の舞台「メタルマクベス」を観に行こうと言っているので(妹は今回の舞台に客演する森山未来くんのファンクラブにも入っているのだ)、何事もなく観劇できる事を祈るばかりなのだ。
新感線は観たいなー。
こればっかりは、土壇場ハプニングはやめていただきたいなー。
だって、タイトルが「メタルマクベス」なんだよ!?
「マクベス」が、「メタル」なんだよ!?
「メタル」な「マクベス」なんだよ!?
タイトルだけでも、妙に興奮気味のわたしよ。

落ち着け、わたし。

「リンダリンダ」は、ボーカルをレコード会社に引き抜かれた解散寸前のアマチュアバンドのお話し。
リーダーのヒロシは解散したくないし、昔のメンバーにも戻って来て欲しい。
けれど、7年も苦労をかけてきた恋人のアキコには「サラリーマンになって、バンドは趣味でもいいじゃない」と言われる。そして、バンドメンバーのマサオは、思いをよせているマネージャーのミキとの将来を考えてバンドを抜けようかどうしようかと思案中。
ヒロシは、メンバーや恋人の気持ちを引き止めるために、そして、自分自身のロック魂を試すかのように、11月20日に堤防の工事を差し止めるために爆弾を爆発させる事を計画する。
工事で干潟が埋められて、ムツゴロウが死滅するのを阻止するのだと息巻くヒロシ。
それとバンドとどう関係があるんだよ!と、叫ぶマサオ。
…ごもっとも。
滅亡するムツゴロウと、ロックバンドのロック魂とか夢見る力だとかをフィードバックさせた…とか、そういう野暮な事は言わない方がいいさ。

ロックバンドの話しかと思いきや、何だか学生運動をしながらおとなになってしまったおじさんとか出てきたりして、爆弾の作り方とか教えてくれたりしたりして、お人よしの警察官がバンドのメンバーに入れてくれと言ってきたりして、敵も味方も入り乱れてきて、ん?んん?んんん?と、思っているうちに、話しに引き込まれてしまった。

でも、絶対に、ザ・ブルーハーツの曲が歌われた舞台を観た方が切なさ倍増だよ。
でも、著作権の問題上、この戯曲だけは鴻上さんしか演出できないんだそうだ。
んなわけで、再演してくれるといいな。
松岡くんがまた出るなら、また妹を誘おう。
今度は事故も台風も高熱も来ませんように。

♪終わらない歌を歌おう~

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2006年1月26日 (木)

『怪談集 花月夜綺譚/岩井志麻子 他』(集英社)

おどろおどろしいものをたまに読みたくなる。
そういう時は、わたしは岩井さんの本を読む。

今回は、怪談の短編集で、岩井さん以外にも恩田陸さんや加門七海さん、島村洋子さん等も執筆陣に加わっている。全編怪談。
おお。わくわく。

昔は、幽霊とかそういう類のものがすごく苦手だった。
本気で怖かった。
お風呂に入っていて、髪を洗っている時に何か背後に立ってたらどうしよう!とか、ちょっと本気で怖かった。
ホラー映画を見た後に、トイレに行くのも怖かった。笑
けっこう、20代半ばくらいまで本気で怖かったんだけれど、笑うなかれ!そこなお方!
でも、やっぱり得体の知れないものって怖いでしょー?

ところが、ここ数年、ピタリと幽霊とか怪談話が怖くなくなってしまった。
身もフタもない言い方をすれば、「だって、人間の方が怖いじゃん」と、思うようになったからだと思うのです。
30年も生きていると、どんなにのほほんと生きているわたしでも、怖い目には遭います。
そんな時、やっぱり一番恐ろしいのは人間だなぁと、思うのでした。
幽霊さんたちは、人間よりもきっと真摯な生き物です。
ん?
生きてないか。
んー。
真摯な存在です。
そんな気がするようになったのでした。

いるいないは別として、日本の怪談話って、とても美しいものが多いので好きになれたのかもしれません。
すごく民俗学的な気がするのです。
土着的というのか。
そんなわけで『花月夜綺譚』。
タイトルからして、もう、美しいではないですか。

この作品集の中で特におもしろいなと思ったのは、島村洋子さんの『紅差し太夫』と霧島ケイさんの『婆娑羅』。
どちらも、怪談なのか?といえば、怪談じゃないような気もする。
幽霊が出てくるわけではないので。

『紅差し太夫』は、絡繰り人形職人の父と息子のお話し。
腕の良い絡繰り人形職人に育った息子・寅一をいよいよ一人立ちさせようとする父親と、期待に応えようとする寅一。
そこに、大金持ちの男から吉原の角海老楼の東雲太夫にそっくりな絡繰り人形を作ってくれるように注文が来る。
仕事の事しか頭にない、根っからの職人気質な寅一も、しぶしぶ東雲太夫を見に吉原へ出かける。
そして、人形にまでしたいと願う男の気持ちがやっと理解できる。
東雲太夫はそれほどまでに完璧な女だったのだ。
しばらく、東雲太夫を研究するために吉原に通うが、どうしても本物のような美しさを再現できない寅一は、ある日、父親の前から姿を消す。
そして、同じ日、東雲太夫は首を切断されて殺される。
町の者たちは、仕事一本だった男が女にうつつを抜かしてとうとう気が狂い、太夫を殺して消えたんだと噂する。
しかし、父親だけは同じ絡繰り人形師として、寅一の失踪がそうではない事を確信している。
やがて、何年も経って、父親のもとに2つの箱が届けられる。
一つの箱には、この世の物とは思われないほどの美しい人形が。
もう一つの箱には…。

太夫の生首が入っていると思うでしょう?
違うんだな、これが。
うふふ。

ゾッとするというよりも、寅一の狂気なまでの職人根性が美しくもあり、恐ろしくもある。
芥川龍之介の『地獄変』に通じるものがある。
お薦めの一冊です。
また読みたいと思うもの。

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2006年1月24日 (火)

『髑髏城の七人/中島かずき』(マガジンハウス)

戯曲じゃないんです。
劇団☆新感線の同名の舞台作品が小説化されてたんですね、知らなかった。
著者は、同じく劇作家の中島かずきさん。
つまりは、自分の舞台作品を自分で小説化されているわけですね。

表紙がダメだと思う。
絶対に、これ、新感線の舞台だって分かってる人しか読まないと思う…。
もっと、普遍的な時代劇の絵柄にすべきだったと残念な感じ。
そうすれば、もっと伝奇チャンバラものが好きな人が読むと思う。
これじゃあ、若者しか読まない。
中島かずきさんはストーリー展開とかすごく上手だし、時代背景もマニアックなほどに調べている作家だから、もっと幅広い人に読んでもらえるはずなのに。
イラストレーターのせいというよりは、企画としての問題だと思います。
絵だけ見ればかっこいいもん。

ストーリーの大まかな展開は、舞台とほぼ同じ。
本能寺の変で信長が死んでから、8年後の関東が舞台。
信長の影武者であった男2人と、森蘭丸が生き残り、それぞれの暮らしをしていたが、やがて過去の因縁に導かれるようにして再び相見えるという物語。
そこに、堺の鉄砲衆から遊郭の女になった太夫や、築城師一族の生き残りの少女、関東荒武者隊と名乗る力自慢の男に、天才刀鍛冶などが加わった、伝奇チャンバラ。

舞台では、それぞれの役者の個性もあり、そして演出の色合いもあって、おもしろおかしさが前面に押し出されている面もあった。
もちろん、舞台と小説では表現方法が全く違うので、比べるのもおかしな話しなんだけれど、作者がどちらも中島かずきさんという事で、あえて比べて読んでみました。
おもしろかったけれど、けっこうおとなな感じやね。
舞台では、「その瞬間の彼ら」を見る醍醐味があったけれど、小説では、登場人物である彼らが、なぜ「今、ここでこうしているのか」という事を、過去にまで遡って描いているので、ちょっとしたサイドストーリーにもなっている。
それによって、今回は、主人公の捨之介という男があまり目立っていなかった。
彼は舞台では、「そんなヤツおれへんやろ!」ってツッコミたくなるくらいの、モテモテでかっこいいスーパーヒーローなんだけれど、小説でそれをやられると、何も面白味がないらしく、彼の持ち味は今一つ。
その代わり、脇を固めている荒武者の兵庫と、遊郭の主の蘭兵衛がいい味を出しまくっている。
兵庫は、舞台ではお調子者で力持ちで、単純明快な男なんだけれど、小説ではなかなか渋い男前である。
彼が荒武者隊を名乗るに至った経緯が詳しく述べられていて、彼の部下になった者の心情も語られていたりして切なさもつのる。
蘭兵衛もまた、なぜ一度は仲間として大切にしてきていた太夫たちを裏切ったのかも、舞台より詳しく分かるので哀しさが増す。

ただ、辛口を通させて頂ければ、決して成功している小説ではないかも…と思う。
でも、おもしろいの。
手に汗握るの。
捨之介と沙霧ちゃんの恋心の変遷とかも、ちょいと気になったりするの。
兵庫と太夫の恋の行方もきになったりするの。
でも、何か物足りない。
何でだろう。

たぶん、捨之介と刀鍛冶が演じていたラストシーンの100人斬りがないからだ!

…無理だっつの。

やっぱり、小説と舞台の表現方法は全然違うんだなぁ。
それぞれに良いところもあるのは当然だけれど、それぞれに、「悔しいッ!」と、感じるところもある。

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2006年1月18日 (水)

『村上元三短編館① 白狐の堂/村上元三』(毎日新聞社)

母が薦める、村上元三さんという人の本を初めて読む。
大河ドラマの原作本といえばこの人!と、母が言うので。

でも、ちょっと失敗。
この短編集は、全話がお坊様の登場してくる話しで編集してあって、とても硬質な品のいい感じのお話しばかりが集めてあった。
おもしろいし、それに、「おお!起承転結が美しく纏まっている!」と、感心するのだけれど、何しろ、どの話しもどの話しもお坊様やお寺様やお釈迦様が出てこられるので、だんだん自分がダメ人間のような気がして、変な落ち込み方をしてしまったよ…。

今度は、ちょっとマヌケな人が出てきそうな本を探して読もう。
さすれば、落ち込まぬぞよ。
…って、そんな人、登場させない作家だったらどうしよう~。
村上元三さんの入口にも立っていないおいらなのでした。

別にマヌケな人ばっかり出る本が好きなわけじゃないけれど。
でも、思ったんだけれど、悲劇悲劇っていうけれど、「オイディプス王」とか「ハムレット」とか「マクベス」って、笑えるよな~って、思って。
悲劇なんだけれど、何だかすごいウケる。
共感して泣いたりはしないなぁ~。
そういう感じが、ちょっと好き。
いや、そういう感じも、たまには好きって感じで。
(わけわからん)

そんな事よりも、今日は、職場にアヒルがいた。
羽根をケガしているから、仕事帰りに動物病院に連れて行くんだと言う。
ウサギとか、アヒルとか。
仕事にならんでしょ。
カワイイから。
アヒルが、ちょっと涙目になってうるうるってしている気がして、目が離せないのでした。
仕事しろ!仕事!と、自分に言い聞かせて頑張りました。
よしよし。

脈絡のないのは、テンションの高いせい。
今日、突然、今書いているものの方向が見えきたから。
次回の勉強会には、ちゃんと作品が出せそうでよかった。
ほッ。

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2006年1月17日 (火)

『トランス[新版]/鴻上尚史』(白水社)

鴻上さんの1993年度戯曲の最新版。
[新版]とあるように、内容もだいぶ変わっている。
鴻上さんの戯曲は、時事ネタ満載なので、それもやむを得ないとは思うけれども、この新版は、今の時代…というか、9・11以降の世界がなければ成立しない戯曲という事なのかもしれない。

ってゆーか、1996年の再演時に、キャストに古田新太さん入ってたんじゃん!
ぬかったわー。
その時期、わたしはちょうどなんだかんだと悶々としてお芝居から離れていた時期でした。
古田さん出てたんだー。
ちっ。

登場人物は3人。
立原雅人と呼ばれる人物
紅谷礼子と呼ばれる人物
後藤参三と呼ばれる人物
と、呼ばれる…とあるように、実はどう呼ばれたっていいんである。
田中でも川本でも木下でも何でも。
女でも男でもいいんである。
3人は、3人であり、1人でもある。
何が正しいのか、誰が正しくて誰が間違っているのか、そういう事も全てはフラット。
そういう戯曲なのだと、わたしは理解しました。

立原が、高校時代の同級生・紅谷のもとへ診察を受けに訪れる。
そこへ、参三という同級生も加わる。
参三は、今はおかまバーで働いている。
立原はやがて錯乱していき、自分を天皇だと言うようになる。
紅谷は天皇に仕える医者として振る舞い、参三は、お付きの女として振る舞う。
やがて、3人の関係は現実なのか妄想なのか分からなくなってくる。
カウンセリングを受けているのが立原だと思っていれば、いつの間にか、紅谷がカウンセリングを受けているような印象を観客は抱き始めるに違いない。
そうかと思えば、参三が医者のような気もしてくる。
そうかと思えば、誰もが医者であり患者であるような気がしてくる。

会話が過激。
TV放送できないと思う。
演劇のナマという表現方法の良いところの1つに、そういうところがあると思う。
天皇として振る舞う立原の言動は、ちょいとすごい。笑
ストーリー自体はとてもウェルメイドなので、鴻上初心者にも優しいんだけれども。

鴻上さんのモテるところって、きっと、
「自己嫌悪というものは、じつは、自分にとって一番、優しいのです。他人だけが、私に痛い言葉を吐くのです。何日も何週間も何ヶ月も一人で自己嫌悪に陥っていても、本当に痛い言葉は、自分からは出てきません。自己嫌悪は優しいのです。」
というような事を、スラッと書いてしまう感じがあるからだと思う。
ちッ

そして、参三役でおねえ言葉でセリフをあやつる古田さん、見てみたかった…。

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2006年1月12日 (木)

『届かなかった手紙/クレスマン・テイラー』(文藝春秋)

読みながら、わなわなわなわなしてくる。
手がふるえそうなほどの、どうしようもない怒りのような哀しみのような苦しみのような、ごちゃまぜになった貧血の起きそうな気持ちがふつふつとこみ上げてくる。
100ページにも満たない薄い本なので、列車の中で読み終えそうだったのだけれど、おそろしくなって途中で閉じた。
公衆の面前で、冷静でいられる自信がなくなってきた。
おそらく、読んでいるわたしは怖い顔をしていたに違いない。

仕事場についてから、人のいない時に隙をみて最後まで読んだ。
今日は一日中、この本の事ばかり考えてしまっていた。

この作品は、マルティンという名のドイツに住むアメリカ人と、マックスという名のアメリカに住むユダヤ人の40代の男友だち同士が交わす手紙だけで話しが展開していく。
物語の舞台は、ヒトラーが台頭してきた時代だ。

2人は旧い友人同士であり、アメリカで画廊を共同経営していたが、数年前、マルティンが家族をともなってドイツに移住したために、画廊経営は実質上、マックスが行っているようだ。
ようだ…というのは、物語は手紙の内容でしか判断できないので、多くを読者の想像に任せているからだ。
マックスは独身で、舞台女優を目指しているグリゼレという美人の妹が一人いる。
そして、グリゼレと親友マルティンは、何年か前まで愛人関係にあったようだ。
しかし、マルティンがドイツに妻子と共に移住する事になり、別れが来て、グリゼレは相当苦しんだようだ。

マックスは、妹にひどい仕打ちをしたマルティンを責めないどころか、再び皆で仲良くしていきたいと申し出る手紙をドイツに送る。画廊経営についてもアドバイスを求め、お金の計算も相談している。
グリゼレが、下積みだった時代にさよならを告げ、舞台で主役の座を射止めた事を報告し、親友と喜びを分かち合おうとすら書く。
そして、友人にこう尋ねる。
「ドイツで権力の座にのしあがろうとしている男、アドルフ・ヒトラーとはいったいなにものだ?」
と。

親しい友人同士の手紙は、この頃から徐々に歯車を狂わせていく。
アメリカに住むユダヤ人のマックスは、ドイツが何かとんでもない方向へ進んでいっているのではないかとドイツに住むアメリカ人のマルティンに書き送る。
けれど、マルティンの手紙はしだいに激しい内容になりはじめ、ヒトラーを崇拝しはじめ、外国じゃあ人殺しだの何だのと文句を言うが、彼はドイツの大インフレに収拾をつけた天才政治家だと手放しで褒め称える。生まれてくる子どもにも「アドルフ」と、名付ける。

「普通の紳士」が、いかにしてヒトラーを崇拝し、ユダヤ人虐殺に加担していったかが、じわじわと分かっていく。
これは、小説なのだから、この2人は架空の人物だ。
しかし、きっと、当時の現実の姿の一部であったのだろう。
この小説は、実はその当時に新聞で連載されていたものなのだそうだ。
当時、この小説を執筆できたテイラーという作家にも、それを連載した新聞にも、驚きを感じる。
勇気にも、だが、現実問題として、よく検閲を通ったものだ。

マルティンは、親友であるマックスにこう書き送る。
「わたしがきみを愛したのは、きみがユダヤ人だからではない。きみがユダヤ人であるにもかかわらず、わたしはきみを愛したのだ」
友だちにこんな事を書けるなんて、何て傲慢な人なのか。
「ユダヤ人」を他の言葉に置き換えてみれば分かる。わたしたちの身近に存在する事柄に。もしくは自分自身に置き換えてみれば分かる。親友だと思っていた人に、こんな風に言われたら、あまりのショックにうちひしがれる。

そして、マルティンの手紙はますます過激になっていく。
「きみにはわからない。何百万人もが救われるためには、少数が苦しまねばならないことが」
それが、ユダヤ人迫害の意味なのだと、彼は「親友」に書き送る。
マックスは、それでもマルティンを信じ続け、親友が軍の検閲を恐れて、手紙に本音を書けないのだと思い込む。そして、再び手紙を書き送り続ける。
しかし、マルティンからの返事にはヒトラー崇拝の言葉しか読みとれない。
「それが善であることはわかっている。なぜならば、われわれの行動は生気に満ち満ちているからだ。人がこれほどの歓びと熱意とを感じながら、悪に引きずりこまれるわけがない。」
「きみはヒトラーのような人物を知ったことは一度もないはずだ。ヒトラーは抜き放たれた刃だ。白い光だ。だが、新たな一日の太陽のように熱い」
まるで、教祖様を崇め奉る信者のようなマルティンに、マックスは悲しみながらも、それでも彼を「親友」なのだと自らに言い聞かせるようにして手紙を送り続ける。
それは、きっと、独裁政治の危険を感じていると同時に、彼はたった一人の親友マルティンを心の底から救いたいと思っていたからだろう。

けれど、マルティンにはもはや何も通じない。
彼は、舞台公演のためにドイツに来ていたかつての恋人グリゼレが、観客たちから「ユダヤ人!」と野次られ、暴行を受けそうになり逃げ出した時、見捨てた。
助けを求めてマルティンの家にやって来たグリゼレに、彼はこう言い放つ。
「グリゼレ、きみはわたしたち一家を皆殺しにするだろう」
賢く優しい彼女は、元恋人の言葉の意味を理解し、あきらめる。
そして、彼女はマルティン家の裏の林で殺される。
ついに、マルティンはユダヤ人を殺した。
けれど、彼は彼の手を汚してはいない。
ただ、逃げてきた「ユダヤ女」の元恋人を「見捨てただけ」なのだ。
裏の林で起きた事なんて「俺のせいじゃない」のだ、から。

やがて、マックスがグリゼレが行方不明だと手紙を出してくる。
妹が君の家に逃げては来なかったかと問う親友の手紙の返信に、マルティンは、もう手紙を寄越すなと書き送る。
ユダヤ人と交友があるだけで、俺の身は危険にさらされているのだ。
それとも、何か?グリゼレをひどい目に遭わせた復讐をしているのか、お前は?
お前が手紙を出せば、俺はそれだけ死に近付く。お前は俺に復讐をしているのか?と。
怒りの手紙は、やがて命乞いの手紙へと変化していく。
死にたくないから、お願いだから俺に手紙を出してくれるな、と。
ユダヤ人のお前からの手紙なんか、俺に送ってくれるな、と。

マルティンって、すごい。
マックスやグリゼレの命は救おうとしないで、自分の命ばかり心配している。
そんなマルティンを助けるために死んだグリゼレって一体何だったのさ。
何だろう、このこみ上げてくる不快感は。
明らかに、戦争と差別は抱き合わせで存在していると感じた。

極限状態になった時、わたしは親友を裏切らないでいられるか。
裏切らなければ、自分が殺されるという時に。
マルティンを責められるわたしが、そこにはいるのだろうか。
マックスやグリゼレのように行動できるのか。
「分からない」ではダメだ。
考えなきゃ。

自分の考えがなければ、きっと、わたしたちはまたヒトラーのような人を簡単に崇拝する。
たくさんの人に読んでほしい本だと、切実に思った。

原題は「ADDRESS UNKNOWN」。
邦題の「届かなかった手紙」は、さらに、ラストシーンに様々な思いが湧き起こる。

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2006年1月 9日 (月)

『アルスラーン戦記⑪ 魔軍襲来/田中芳樹』(光文社)

7年ぶりのアルスラーン新刊。
もう、出ないのかと思っていたよ。
ところで、出版社と挿し絵の人が変わっているのは、何かおとなの事情があったのかなぁ。
ま、いいや。

高校生の時に、友人におもしろいと教えてもらって読みはじめたシリーズ。
久しぶりに読んでみて、文章表現に少々物足りなさを感じるのも確か。
きっと、人間の脳みそは日々変化していて、7年の間に、素晴らしい小説をたくさん読んで、脳みそが鍛えられたからでしょう。

お話しは、中東をモデルとした架空のパルス王国を舞台に、アルスラーン王子という少年が奪われた国を再建するべく旅に出て、仲間を得、そして国王になるまでのお話しが前半戦。
今は後半戦の途中で、国王になったアルスラーンが平和な世を築いていく中で、地底に潜む蛇王ザッハークという魔性の者が再びパルス国を恐怖に陥れようとしているところ。

アルスラーン王子は、先王の息子でありながら、父王にも母である妃にも邪険に扱われてきた。
もしかしたら、自分は本当の息子ではないのかもしれないと、思ったり、それが真実かもしれないと家来の失言から知ったりして、少年は苦悩する。
腹違いの兄がいる事も分かり、その兄と王位継承を争う事になる。
生死も分からぬ妹もいるらしく、何人かの女性登場人物が、読者に「もしかして、この子が妹!?」と、思わせてくれる。

若く悩み多き王子を、仲間たちが「たとえあなたが王子でなくとも、わたしたちはあなたを愛している」と支える、まことににくい感じです。
賢い軍師に、強い剣士、吟遊詩人に、女神官…と、ヒロイックファンタジーのおいしいキャラたちをふんだんに盛り込みながらも、密かに現代の社会へチクリチクリと苦言を呈する書き方は、筆者の得意とするところ。
『銀河英雄伝説』などは、それがもっとあからさまだった。当時、リアルタイムで読んでいれば政治家たちには明らかにモデルがいることが分かったりした。
そういう、この人の作品のちょっと俗っぽい感じも読者受けするポイントなのかもしれない。

その書き方に、ちょっと飽きたな…と、思いつつ読んでいたんだけれど、巻の最後には、何だか魔軍が王都に出現した!アルスラーンはまだ知らないぞ!やばいぞ!どうするどうなるパルス国!?って、ところで終わっていて、あー12巻も読まなきゃ…と、思っちゃいました。
やっぱ、小憎らしいッ!

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2005年12月27日 (火)

『おまけのこ/畠中 恵』(新潮社)

「しゃばけ」シリーズの最新刊をやっと読む。

ところで、「しゃばけ」シリーズでいいの?
本当は、何シリーズ?
「病弱若だんな妖怪捕物帖」シリーズ?
長ッ!

今回も、例によってお江戸の長崎屋の病弱若だんなが、屋敷に住まうあやかしたちと、お江戸の町の人情事件を解決!
若だんなの幼い頃の思い出話まで出てきて、今回もサービスたっぷり。
若だんなは、小さな頃から謎解きが大好きだったんだね。
また、物語の小さな小さな登場人物(妖怪?)、家鳴りの大活躍もあり、可愛さ倍増。

わたしは、第一話目の「こわい」というお話しが好きだな。
「こわい」という妖怪は、妖怪たちの中でも忌み嫌われている妖。
人間にも「こわい」と言われ、妖仲間からも「こわい」と言われる、いわば妖怪界の中でのイジメられっこ。
妖たちも、本当は、同類をはねこにはしたくない。
けれど、「こわい」は、「怖い」という語源になってしまったほどの怖い妖怪。

だが、本人は何もしないのだ。
人もおどかさず、悪さもしない。
ただ、「そこにいるだけ」の存在。
ただそこにいるだけで、「こわい」に関わった全ての妖・人間・神仏までもが不幸になってしまうという哀しい妖。
不幸どころか、命まで奪う可能性があるのだ。
神や仏ですら手を差し伸べる事をやめてしまったほどの、負のエネルギーを持つ妖に、若だんなは手を差し伸べる。
結果、多くの人が傷付き、大切な家族や友人・愛する者までも失いそうになる。
人の姿をしているが、本当は妖である長崎屋の手代や番頭が、若だんなを叱る。
甘い考えはよしなさい。
世の中には手に負えないほどの不幸があるのです。
見捨てるのは確かに薄情かもしれない、でも、それによって自分の一番大切なものを失ってどうするんですか。
手代や番頭の言う事も、もっともだ。
でも、若だんなは、誰からも嫌われる行き場のない「こわい」を不憫に思い、「こわい」を家に招き入れようとする。

「お前を全て受け入れるのは、今のわたしには無理かもしれない。周囲の反対や冷たい目がたくさんあるだろう。でも、いつかお前がここに何の心配もなくいられるように、わたしは努力するよ」

だが、しかし、「こわい」は、この言葉に激怒する。

「おいらが「こわい」じゃなかったら、あんたはおいらを家に入れる時、決してそんな事は言わないだろう!」

これって、妖怪の世界じゃなくても人間の世界でも充分ありうる事だよなぁ。
「こわい」が怒るのも無理はない。
「こわい」を無視する者たちよりも誰よりも、一番、優しそうに見えるこの若だんなが、一番、「こわい」を怖がっているのだ。一番、「こわい」に偏見を持ってしまっているのではなかろうか。
それを「こわい」は見抜いたのだ。

物語は、「こわい」が激怒して出ていくところで終わっている。
でも、本当は、そう言われた若だんなが、これからその言葉をどう胸に抱いて生きていくかが大切なんだと思う。
頑張れ、若だんな。
頑張れ、人間ども。

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2005年12月26日 (月)

『信長の棺/加藤 廣』(日本経済新聞社)

読みました。
話題の大型新人時代小説ぅを。

週間ブックレビューで、誰かが大絶賛していたのです。
主人公の牛一は、おそらく作者本人なんだろう、とか。
信長への思い入れだけで、一冊書き上げた根性はすごい、とか。
いろいろ。
書評って、売り上げにものすごい貢献するんだなぁ。
わたしも踊らされてしもうたけれどもさ。

もう一つ、わたしが興味を惹かれた理由は、本能寺の変で死んだ信長の「遺体」は、しかし、どこにあるのだ?という謎を解明したという煽り文句。
数々の歴史小説や時代劇では、燃えさかる炎の中で、自分の腹をかっさばく場面とか、炎の中で敵に囲まれながらも一人勇敢に立ち向かう姿なんかが描かれていて、それはそれでカッコイイ。
遺骨が今だに見つかってないという事は、いくらでも、その死を美化する事はできるんだけれど。
…でも、本当はどーだったのよ、と。
そこに興味津々だったのでした。
で、主人公の牛一という老人が、信長と秀吉に仕えてきた経験と知識を総動員して、謎の究明に残りの人生をかけるんですな。
そこんところが、武士の暮らしを捨てて、半生を信長公の幻に捧げた男のスリルとサスペンスみたいな感じで、おもしろいのかも。

もちろん、この本の中に描かれている、信長公の遺骨の在処や、その最後の瞬間は、フィクションです。
小説なんだから。
週刊ブックレビューで推薦していた人は、このラストに大感動みたいな事を言ってたんだけれど…すんません、わたしは不満です…。
だって、かっこよくないんだもん。笑
短命で美形の武将が、こんな最後でいいわきゃない!
…ん?
読み方間違ってる…?

ところで、何でわたしは「短命で美形の武将」という設定でも、信長は好きで、義経は苦手なんだろう。
ボンボンくさいからかな。笑
でも、マジメな話し、あくまでも、それは時代小説の中での「キャラクター設定」として、好きなわけで。
ホロコーストは嫌いです。

そんなわけで、この娯楽超大作には、不満。
ぶーぶー。
あと、牛一の元にいる、多志という女性キャラにも不満。
最初は、牛一のもとに送り込まれた間者で、ちょっとかっこいい設定だったのに、いつの間にか牛一に惚れて、ただの女になっちゃってるのが不満。
出てきた意味あんのか、おーい!と、思ったんですが、まあ、それは作者の願望なのかもしれないので、仕方ないのかもしれん。笑

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2005年12月17日 (土)

『野田秀樹論/長谷部 浩』(河出書房新社)

野田づいていますね、最近。
一つの事にこだわると、とりあえず、関連書をバーッと読まないと気のすまないわたしなのです、すいません。

演劇評論家、長谷部さんの野田秀樹論です。
すごく読みやすくて面白かった。
評論家という人たちって、こう毒舌なイメージがあるんだけれど、演劇関係の評論家さんたちって、そうでもない気がする。テレビや雑誌での評論を聞いたり読んだりしても、どの方も、まずは、
「演劇が大好き!」
という姿勢が溢れている気がする。
さんざん舞台を鑑賞し楽しんだ感じが溢れているよ。
好きじゃなきゃ、劇場に足を運ばないんだろうけれど、でも、例えば、映画評論家さんの評論を読んだりすると、ものすごい蘊蓄が述べられていて、一般の観客たちには「???」みたいなのもあったりするじゃん。
え。そんなに酷評して、映画の観客動員数を減らしたいわけ?みたいな人っているじゃん。
あ。そーか。
お芝居の観客動員数はもともとすごく少ないから、増やすために誉めるのかな?
それとも、たまたま、わたしの読んだり聞いたりした評論家さんたちが良い人たちだっただけなのかな?

ともかく、夢の遊眠社が解散してから後の野田氏の全作品の解説が収録されているので、かなりオススメ度は高い。NODA MAPファンには必読書かも。
わたしは、「キル」というジンギスカンをファッションデザイナーとして描いたNODA MAP第1回公演の作品、とてもおもしろいと思って観たんだけれど、でも、なんとなく釈然としない部分もあった。ビデオを何度も観てもよく分からないところがあった。
でも、長谷部氏の評論を読んでいて、目からウロコ。
評論家の存在する必要を感じた一コマ。

自分とは違う解釈も読みとれて良かった。
なるほど!そういう見方もあるのね!と。
女性の感受性と男性の感受性では違うところがあるのかどうか、思いもしないような感想もあっておもしろかった。

天海祐希さんの美貌をべタボメで、おもしろかった。笑
あ。評論家さんも好みとか書いちゃっていいんだ、みたいな。笑
もちろん、お芝居の中での素晴らしい演技と存在感を含めてほめているんだけれど、必要以上に「美しい、美しい」って。そりゃ、すごいきれいな人だけれどもさ。
何か、長谷部さんという人に親近感なのでした。
わたしが堤真一、美形~!!!って、キャーキャー言うのと変わらないかも~。

あ。すみません。
調子乗りました。
違いますよね、きっと。

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2005年12月16日 (金)

『解散後全劇作/野田秀樹』(新潮社)

大雪のため、ここ数日、公共交通機関が正常に運行されていないので、早起きをしている。
今朝は午前5時起き。
6時15分に家を出て、始発の列車に乗るために駅へ向かう。
その時、戸外は真っ暗。
どれっくらい、真っ暗かってゆうと、これっくらいです↓
051216
でなもんで、思わず携帯電話のカメラで撮影。

…夜じゃん…。
むしろ、各家庭の電気がついてないから、夜より暗いよ…。
2つほどポツンと点灯しているのは、自転車屋さんの灯り。

あぁ、江戸時代の町民たちは、きっと早起きして仕事の支度するから、毎朝、こんなに真っ暗な道を歩いていたんだろうなぁなんて思いながら、歩く。
何で基本的な思考が江戸時代やねん…。

でも、朝の空気はまだ車の排気ガスや歩き煙草の煙に汚されていなくて、澄んでいてとてもおいしいから好きだ。
肺が喜んでいる感じがする。
わたしもやっぱり人間っていう名前を持った動物だ。
きれいな空気を吸うと嬉しい。
毎朝、こんなにおいしい酸素を呼吸できるのなら早起きしたいと、思う。
でも、朝になると「起きたくな~い!」と、ベッドの中でダラダラしちまんだけどもね。

*******

野田秀樹の戯曲集を読んだ。
「贋作・罪と罰」が収録されている本。
ちなみに、劇団・夢の遊眠社解散後の全劇作なので、他には「キル」、「TABOO」、「赤鬼」、「ローリング・ストーン」が収録されている。「TABOO」という作品を観た事がないので、観てみたかったなぁ~と思った。タブーというタイトルで、天皇制に対するかなりストレートな戯曲。でも、思い返せば、野田さんのお芝居って、戦争とか天皇とか差別って、かなり描かれているかも。再演しないのかなぁ。

あ。「贋作・罪と罰」は、もとになったドストエフスキーの「罪と罰」を読んでから読み返したので、昔よりもさらに深く感動しました。わたしは、初演は観てないんだけれど、戯曲を以前に読んで「うわ~!おもしろい~!」って思っていたので、来年が楽しみ。

先日の日記で酷評した主人公ラスコーリニコフくんは、この戯曲の中では女性になっている。
物語の舞台は、幕末の日本になっている。
主人公は、三条英という女塾生。
その母親・清は、「三代前は公家の親せきの血筋」、「お前の父は将軍様に仕えて立派に殉職したお人」と言うのが口癖。そして、娘の英に、女だてらに立派に出世しないさいと尻をたたく。
英の妹の智には、お金のために、成金の女たらしの男のもとへ嫁にやろうとする。

英は、母の口癖を半信半疑ながらも信じる努力をし、いつかは立派な人にならなければと必死だ。
彼女は、親友の才谷という男とともに、倒幕を夢見る志士であった。
目的を達成するためには、多くの人間の血を流す事になっても仕方ないと考える英。
倒幕という夢は同じでも、人の血は一滴も流してはならないと主張する才谷。
実は、この才谷という男には別の名前があるのだ!
ドストエフスキーの原作と同じで、才谷はラスコーリニコフくんの親友役なんだけれども、野田戯曲中ではかなり大きな役割になっている。第2の主人公と言ってもいいくらい。
別名に気付いた瞬間の鳥肌!
あー!言いたい!でも、これから舞台を観る人にネタバレになっちゃダメだから言えない!

原作での、主人公に殺される金貸しの老婆と、母親と、娼婦ソーニャの母親という役を、戯曲の中では英の母親・清という女性が一人で担っている。
うまいなぁ。
ごうつくばりの老婆と、他者の保護がなければ生きられない清と、名誉欲の激しいソーニャの母が一人の俳優によって演じられるというセンス。
観客にとってもだけれど、主人公・英にとっても、自分の殺した老婆と母親の顔が同じという衝撃がある。
自分の母親と向かい合うたびに、彼女は自分の罪に向かい合わざるをえない。
それこそが、彼女への罰みたいなもんです。

そして、妹の智も、娼婦ソーニャの影を背負って登場する。
娼婦の役はこの戯曲から除かれているんだけれど、智が一人でその役を担っている。
貧しい暮らしから逃れるために、成金の男のもとに嫁ぐ決意をする姿と、体を売ってお金を得る原作のソーニャの姿が智という一人の女性に投影されている。
この設定は、まあ、想像つくんだけれども。
でも、その智が、女だてらに塾生になって立身出世を期待されている姉・英への羨望と嫉妬を感じているという設定は、主人公が女でなければ出せなかったはず。
自分には、主義も思想もないし、学問もない。
けれど、同じ女の英には皆に期待される才能がある。
女の武器を使って生きるしかない自分と、学問で立身出世のできる姉との差は何なのか。
口では「お姉様を尊敬しています」と言いながらも、それだけでは収まりきらない複雑な思いがここにはある。

そして、幕末という不安定な時代に生きる女性たちの必死に生きる姿は、現代の女性に容易にスライドできて、英という自立心の強い女性に感情移入しやすい。
ただ、その自分への高い理想を持って、気丈に生きる英が、大義のために老婆を殺す、その醜悪さと切なさがどうにもつらい。
原作のラスコーリニコフのような甘ったれた感傷がないために、嫌悪感は感じないのだけれど、彼女がそこまでしなければならかったのは何なのか…と、思う。
彼女は、親友…いや、それ以上の存在だった才谷に、もっと甘えても良かったのではないのかと、思ったりする。才谷は、いつでも胸を貸す準備があったはず。
才谷は深刻ぶる英をいつも励ます。
「もっと、楽に考えろ」
と。でも、女一人で、一家を背負っていかなければ、母と妹はわたしが守らなければ強く生きなければ、と思い詰めていた英には、それができなかったんだろうなぁ。
切なかねぇ。
そして、大義のためなら人の血を流してもいいと主張する英と、「それは違う」と言い続ける才谷の進む道は違う。

戯曲を読んで、この舞台がどんな風に演出されるのか、すーっごく楽しみになってきた。
役者たちが、それぞれの役をどう咀嚼して見せてくれるのかも、楽しみ。
ちなみに、主人公・英は松たか子さん。
きっと、血のたぎるような美しく切ない志士を演じてくれることでしょう。
楽しみ楽しみ。
古田新太さんも出演するので、わくわく。
実は、どの役をするのか知ってしまったのだった。
ぎゃー!
すんごい楽しみすぎる。
鼻血出るかもしれん。
結局、そこか。笑

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2005年12月13日 (火)

『世界文学全集31 ドストエフスキー集(一)』(筑摩書房)

『罪と罰』を読もうと思って、手に取った。
来年の野田秀樹のNODA MAP公演が『贋作・罪と罰』なので、予習をしようと思って。

んが。
文学全集の中の、中編くらいかとナメてかかったら、何とまあ、超大作でびっくり。
こんなに超大作だったとは、知らなかった自分を恥じるばかり。
この本にして、上下二段に分かれて訳700ページ。
原稿用紙で換算すると何万枚なんでしょうか!?
とにかく、読み終わるにの10日もかかってしまったのでした。

そして、なおもびっくりする事に、粗筋を説明してしまえばものすごく数行ですんでしまいそうな話しなのにもかかわらず、主人公たち主要人物どもの長い長いモノローグと長ゼリフの応酬によって、どうかすると、4,5ページくらいは一人の人がしゃべってたりするので、もう何だかすごいテンションの高さ。
でも、要するに主人公は殺人を犯してしまうので、全編に陰鬱な雰囲気が漂っている。
陰鬱なハイテンションとでも言うような、何だか変な感じ。
もちろん、日本語訳をする人にもよるんだろうけれど、ちなみに、この本は小沼文彦さんという方が訳しています。
初版が昭和45年なので、ちょっと時代がかった言い回しなんかがあったりして、滑稽ですらあるのでした。

『罪と罰』といえば、国語や世界史の教科書にその題名くらいは乗っているから、名作だという事くらいは知っているんだけれど、で、結局、何がどう名作なのか、正直、第1章を読み終わるまで分からなかった。
だって、ただひたすらナルシスティックな主人公、ラスコーリニコフの悶々としたモノローグなんだもん…。
その自己陶酔っぷりたるや、太宰くんにも三島くんにも圧倒的勝利だよ!って、思ったんだけれど、2章からやっと面白さがわかってきた。
当時は、ドストエフスキーさんは、これを1章ずつ発表したそうで、で、ものすごくバッシングを受けたそうなんだけれど、そりゃそーだって、ちょっと思ったのでした。第1章だけじゃ、犯罪推進みたいな誤解を受けそうだもん…。

しかし、何でこんなに、登場人物の本名と呼び名が違うんだろう。
誰が誰やらさっぱり分からなくなったりするので、たまにカンで読んでいました。
で、途中で「あ、違うあの人じゃなくって、この人だったんだ!」と気付いたりします。
ロシア語の表記を見れば、その呼び名にも納得がいくのかもしれないんだけれど、ケイコちゃんをミチコちゃんと呼ぶくらいに、ものすごいかけ離れた愛称なんで、困りました。
主人公のラスコーリニコフも、3種類くらいの愛称があって、家族や友人や警察の人によって、全然呼ばれ方が違うんだもん。

名作だっていう事は分かったけれども、わたしはどーしてもラスコーリニコフくんを冷たい目で見てしまうのでした。
だって、すごい自分勝手なんだもん。
ナポレオンがたくさんの人を殺しても殺人者とは呼ばれず英雄だと言われるなら、英雄の素質を持った人間が他の虱のような人間を殺しても許される…みたいな、意味不明な思考回路。
ニュアンスは違うんだけれど、かなり自分勝手。
んで、老婆を殺害して、たまたま部屋に入って来てしまった老婆の妹まで殺害。

えー。
どないやねんなぁ。

全く同情の余地ないんだけれどもさ。
しかも、自分を特別な人間みたいな事言うてるし…。
甘ったれんなぁッ!って、思うのでした。

わたし、ロマンチックな気持ちの欠けた人間なのね、きっと。

んで、彼は、最後の最後まで反省しないんだよね。
何があっても。開き直ったりするし。

ラスコーリニコフくんのいただけないところは、もう一つあって、何だか知らないんだけれも、やたらと人に説教するところだね。
貧しさに追いつめられて、お金持ちの男性に求婚された妹が、母と兄(ラスコーリニコフ)のために結婚しようとすると、激怒したりとか、ね。
「そんなのは身売りだ!」とか言って。
そのくせ、自分は強盗殺人してるんだからね。
んで、偶然知り合った、娼婦のソーニャには甘えてるしね。
妹にはさんざん身売りはいかん!とか説教しといて、自分は娼婦に救われてるんだもん。
何だか欺瞞だよ。
妹はダメで、ソーニャならいいのか?という疑問は、今の時代に生きているからそう思ってしまうのかなぁ。

最終的に、無神論者で神につばを吐いていたラスコーリニコフくんは、娼婦ソーニャの信心深い心に感化されたかどうか、現実に立ち戻っていくんだけれども。聖書もきちんと読むようになったり、十字架を身につけるようになったり、と。
やっぱり、「?」って、思うのでした。
それじゃあ、ソーニャはステレオタイプの女性像「娼婦であり女神である」みたいな感じになっちゃって、じゃあ、結局、主人公ラスコーリニコフは、自力で立ち直ったといえるのか?という疑問が湧き上がってきたり。
ソーニャは無心の愛を主人公に与え続けるんだけれど、それは、ソーニャが娼婦だったからという前提なしでは語られない話しだったのでは?という疑問。
父親も母親も亡くし、幼いきょうだいも手元にいなくなった天涯孤独のソーニャに、親の葬式代やら何やらを与えてやったりするし、流刑になった時も、天涯孤独な彼女だからこそ、先の事はとりあえずどこまでも主人公について行けたんだろうし。
主人公は、自分の罪を愛する家族や友人には決して打ち明けられなかったのに、ソーニャにだけは、「自分と同じくらい汚れている女だから言える」なんて言うし。
そりゃあ、自分勝手な理屈だよと、思っちゃうのはわたしだけ?
ソーニャはソーニャだよ。

まあ、それは当時の女性への価値観とかが今とは違っていたりするからかもしれないし、宗教観の違いもあるかもしれないんだけれど。
そう、宗教観の違いって、外国の小説を読んでいる時に、たまに感じる。
映画とかでも。
今回も、この作品はおもしろいとは思ったんだけれど、でも、どうしても、わたしには、
「でも、この人は人を殺したじゃん!」
って、言いたくなるのでした。
心狭い?

どんなに神に救われようとも、殺害された人は戻ってこない。
殺したラスコーリニコフには、生きている限りはそれなりの未来があるかもしれないけれど、殺された老婆とその妹は、その時点でおしまい。

むか~し見た映画、「デッドマンウオーキング」を思い出しちゃった。
麻薬でラリった主人公が、若いカップルを強姦殺人して、死刑囚になるんだけれど、毎日のように面会に来るシスターに懺悔して改心して、神を信じる心を取り戻して、静かに死刑を受けるっていう映画なんだけれど。
全然、感動しなかった。
でもこの人、強姦殺人したじゃん!って言いたくなるのでした。
何で、この人だけ精神的に救われるの?
もしかして、犯人が救われた時点で、被害者も救われるという常識が宗教観の中にあるの?
でも、現実はそうじゃなくて、その若い男女はただ通りすがり的に殺されたんじゃん。しかも、女の子の方は強姦までされてすごくつらかっただろうにとしか、思えなかったのでした。
心狭い?
でも、だってなぁ…。

そんなわけで、『罪と罰』。
作品としては、おもしろかったんだけれど、ラスコーリニコフくんには納得いかない。

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2005年12月 5日 (月)

『千の風になって/原詩作者不詳(日本語詩・新井満)』(講談社)

一遍の詩の本。
読みはじめた瞬間、ぶわぁっと、体中を風が吹き抜けていくような爽快感があった。
驚いた。
何だろう、この感覚はと、思った。
この詩が世界中のどこかで、その多くは愛する人の死の場面で読まれている詩なのだという事を、あとがきで知る。
本の帯には「大切な人を亡くしたら」と、書いてある。

実のところ、この手の装幀の(って、実物を見なければ分からないでしょうけれども)、おとな絵本というのか、癒し系の本というのが、あまり好きではない。
いいものもあるけれど、だいたいが読み終わってから、どうしても「け」と、思ってしまったりする。
きっと、心がすさんでいるのでしょう。笑
でも、この本はそういう「け」という外見をしていたけれども、すごく素直に読めた。
ありきたりの言葉だけれど、死は全ての終わりではないと素直に思えた。
この世界中を吹き渡る風の中に、わたしの愛する人たちは生きていると思った。
今までも、これからも。

この本を手にとったのは、母が買ってきていたから。
母がどういう思いでこの本を買ったのか、何となく分かったつもりでいるつもり。
でも、母は「深く考えない考えない。本屋で見て感動したから買っただけ」と言う。
じゃあ、それでいいや。
でも、あんまりにも熱心に母が読め読めと言うのでしぶしぶ読んだ。

そうしたら、体の中を風がぶわぁっと通りすぎていった。

いろんな人の事を思い出した。
わたしのまだまだ短い人生の中で失った、大切な人たちの事を思い出した。
わたしよりもずっと若かった、Kくんとか、Jくんの事を思い出した。
その時は、普段はあんまり涙もろくないわたしなのに、何だか恥ずかしげもなく人前でわーわー泣いてしまったくらいつらい出来事だったけれども、今も書いていて泣きそうになるけれども、でも、この詩は確かにわたしの中の何かを風で包んでくれたような気がする。
あまりにもタイトルどおりすぎて、何だか魔法にかかったみたいだ。

言葉ってすごい。
ちょっとそう思った。

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